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第56話 あさぎり ◆aKOSQONw 投稿日: 2005/05/24(火) 19:46
−Miss Sarajevo−

 この街は前からずいぶん朽ち果てていたが、今や立派な廃墟になった。
 チトー孤児院の子供が切り盛りしていた、落ち目の新聞あたりが喜んで記事にしそうな桃源郷は昔話
になった。ただ、そもそも桃源郷かどうだったかは知ったことではない。
 「探偵さん、こっち」
 昨日の夜からタイワンが色々世話を焼いてくれている。間抜けな探偵のサポートが契約内容らしかった。
昨日は腕を組んで安ホテルに入り込み、久々に他の誰かとベッドで寝ることになった。多分添い寝も契約の
うちだったのだろう。
 絡み付く長い髪から懐かしい匂いがした。酒を酌み交わしてたまに昔話をする。それは昔思い描いた未来
だった。妄想との違いはそれがベッドの中という事と、楽しい思い出がなかったくらいだ。子供の夢想と
大人の現実、その差があることに気付くまで随分時間をかけた。

 タイワンに続いて廃墟を彷徨う。ありきたりなクロゼットの扉を開けると、タイワンは慣れた手つきで
床の隠し扉を開けた。狭い階段を先に下りると、タイワンは扉を閉じて先に行くよう促す。
 コンクリートの地肌むき出しの地下は意外に広かった。切れかけの蛍光灯が点滅を繰り返していたが、
歩く分には何の問題も無い。無愛想な鉄扉が廊下の突き当たりにあり、タイワンを振り返ると開けるように
再び促す。
 手前に扉を開くと、他のものと同じくらい無愛想な調度品が目の前にあった。
 少し油断していたのかもしれない。一歩踏み込んだ途端、こめかみに銃を突きつけられた。タイワンに
嵌められたのだろうと冷静に考える自分が少し可笑しかった。
 「ちょっと、お客さんに銃突きつけるのやめてよね」
 後から平静なタイワンの声がした。さすがに身じろぎは出来ない。
 「お客さんの名前は先に言って欲しいものだわ」
 「ごめん、時間無くって」
 「ま、大体事情は知ってるからいいけど。適当に座ってちょうだいな、名探偵さん」
 「わかってるなら銃なんか突きつけて欲しくないものだな」
 「文句なら誰が来るのか言わなかった宿無しに言って頂戴」
 女が持つには不釣合いなリボルバーを下ろして、トル子は手近なソファに身を埋めた。
 言われたとおり手近な事務椅子に座り、改めて部屋の中を見回した。
 無愛想なコンクリートの壁と天井、申し訳程度に応接セットの下になっているペルシャ絨毯、どこに
でもありそうなスチールの事務机に書棚。不満なのは灰皿が無いことだった。
 タイワンもトル子の向かいに腰を下ろし、3人が不思議な沈黙の中で暫く過ごした。先に喋れという事らしい。
 「シリアが殺された」
 「知ってるわ」
 「誰が殺せと言ったんだ」
 「ストレートに聞くわね、まるで私が知っているみたいじゃない」
 「少なくとも関係者だろう、ゲルマッハと一緒になって使用人の斡旋をしていた」
 「調べはついているって言いたいわけね」
 「立証は多分殆ど不可能だろう。だが俺の目的は逮捕者を出すことじゃない」
 「飼い主はそれを望んでいないということ?」
 そういう事だ。別に言い渡されたわけではないが、暗黙の了解というやつだ。どうせ自分の不利益が出て
来そうなら握り潰されるだけだろう。飼い主は頼んだ以上の仕事は要求しない。むしろ余計なサービスは
夜道で背中を人に晒せなくなることになる。
 トル子とゲルマッハを叩いても単に斡旋収賄程度の埃しか出てこない。問題はこの二人が誰と組んで
シリアを送り込んだかだった。もしかしたらフランソワーズすら共謀していたのかもしれない。こいつらまで
敵に回せば、電気のつかない事務所で爪の手入れをするくらいしか出来ることがなくなる。名探偵はまさに
危機的状況だった。
 「あまり時間はかけたくない」
 「ゆっくり調べればいいのに。経費の請求は出来るんでしょ、名探偵さん」
 「お得意様にはそうするがね、気に入らない客の時はさっさと片付けるのを信条にしている」
 「信条って言うほどのものでは無いわね」
 「そうだな。それで、黒幕はロシアノビッチなんだな」
 「調べがついているんなら、直接聞いたほうがいいわよ」
 「調べはついていない。ただの推測だよトル子」
 「タイワン、あなた私を困らせるつもりでこの名探偵さん連れてきたのかしら?」
 「お好きにどうぞ。私はここまでが仕事だから」
 タイワンは素っ気無かった。トル子は少し色めき立ったが、何とか感情を抑えるとまたソファに体を戻した。
今度はソファに体を預けたりせず、いつでもこっちにリボルバーの銃口を向けられそうだった。
 煙草を取り出して火をつけ、昨日シリアの持っていた暗号文のコピーと、プリントアウトしたデータを
投げてよこした。
 「解読は殆どしていない。ホテルからシスターアンジェラの端末じゃおちおち分析も出来なかった」
 「お父様自慢のエシュロン社に嗅ぎ付けられるのかしら?」
 皮肉と嘲笑のまじったいい顔だった。
 「巣穴の狼まで動かしている。だから余計にまずいんだ。連中は灰色が黒に見えるくらい目が悪い」
 瞬間トル子の顔に緊張が走った。表沙汰にならないだけで、事が大きくなっていることは理解してくれた
らしい。
 「それでわざわざトル子が見たく無いだろう顔を見せに来たの、私は。ここが一番安全でしょ?家主は
内輪もめで皆死んじゃったし、盗聴もされないし」
 「どうせ雇い主も早晩嗅ぎ付ける。そこで取引をしようという訳さ」
 「人に恩を売りつけるのだけは、相変わらず上手いわね」
 「そうでもない、俺も殺人犯の濡れ衣を着せられかけているんだ。飼い主には誠実な報告を、奴隷商人
からは安全保障が欲しいだけさ」
 トル子はリボルバーの撃鉄を起こしてこっちに銃口を向けた。重い銃を扱いなれていないのか、狙いが
首辺りに来ている。護衛を人任せにしているから、脅しでしか使えない銃を平気で突きつけるのだろう。
 「それじゃ当たらないよ。良く狙うんだ、両手で銃をしっかり持って脇を締めて。それに使ったことの
無い銃なら頭より心臓を狙うべきだね」
 「アンタはいつもそうだった。人の弱みを握ったら絶対にそれを捨てない。そうやって人に集り続けて
旨味がなくなるとすぐに捨てる」
 「今更奇麗事は止した方がいい」
 トル子はきちんと両手持ちでトリガーを引いたが、後ろの棚に弾がめり込んだだけだった。他の助言を
全く聞いてくれなかったようだ。反動で腕が上に跳ばされた。
 軽くパニックになっているトル子に近寄り、素早くリボルバーを取り上げた。反動で腕が痺れたのか、
抵抗は殆どしなかった。
 少し正気を取り戻すと力任せに平手打ちをしに来た。咄嗟に左腕でブロックして二の腕をねじり上げる。
 半狂乱になりながら残った左でみぞおち辺りに拳をくれるが、幼稚園児の肩たたきみたいな威力だった。
 「こけ脅しはクルかソフィアくらいにか通用しないよ、トル子」
 トル子は狂気交じりの憎しみいっぱいの目で睨みつける。でもそれは怖気づいている相手にしか効果が
無いのをまだ気付いていないみたいだ。目から狂気が消えると、今度は感情に任せて涙が流れ始める。
同じ泣くならベッドの前かバーのカウンターで流すべきだ。
 「もういっそ殺してよ」
 何かの拍子で髪飾りが取れたのだろう、左側の髪が肩口から胸のほうにまで垂れ下がっていた。疲れた
自嘲を浮かべ、嗚咽に耐えることもせず、そのままトル子は泣き崩れた。タイワンはつまらない映画を
見るような目つきでずっとこの茶番を眺めている。
 こちらとしても、昔から色々役に立ってくれた駒を失いたくは無い。非協力的な中東町のゴロツキに
比べれば、トル子は遥かに協力的だった。昨日のゲルマッハくらいには。
 「投げ遣りになる程の事じゃない。気に入らない関係無い奴を呟いてくれれば、それで全て丸く収まる。
司法取引だと思えばいいのさ」
 協力的に助言をするのは久々だった。親身になってもいつか裏切られるなら、要求を絞込みさえすれば
いい。 

to be continued

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