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第1653話
有閑工房1
投稿日: 03/09/17 21:07 ID:k9Smbjcf
『それから…』
あの日の情景は良く覚えている。
やっと自分たちの店を持てた事で喜びを爆発させるパパの店の従業員。
笑顔の中に微妙な不安をにじませる私の店の従業員。
誇らしげに飾られた『独立と自由ほど尊いものはない』という家訓の横断幕。
久しぶりに見るホーチミンの、まるで他人を見るように私を突き刺す視線。
何が起こったか解らないけれども、周りにつられてはしゃいでいるベトナ。穏
やかな微笑みの中に、今後の不安を隠せないでいるパパの顔…。
つい昨日のことのような気がする。
パパの不安が的中し、あれからは気の休まらない日々が続いた。
店を自分の手に取り戻す戦いは確かに終わったが、それは店を切り盛りする苦
労と、一度バラバラになった家族を新たに作り直すという苦労の始まりでしかな
かった。
親の苦労がそうだから、ホーチミンとベトナはもっと苦しかったかもしれない。
パパから凄まじいまでにスパルタ教育を受けたホーチミンと、私が甘やかしま
くったベトナでは、歴然とした差が出て当然だった。
私は忘れない。駄々をこねて泣き出したベトナを冷たい目で見下ろすホーの姿を…
*
「ベトナ、ママンが何で怒ってるか判るね?」
「……はい。」
「遊びに行ってつい忘れたのはわかる。でもね、家族みんなで決めたことを守れ
ない子は家にはいらないからね。わかった?わかったら行きなさい。」
ベトナはしょんぼりとして玄関に向かった。友達と遊んでいるうちにお使いに
行くのを忘れたのだ。罰は晩御飯抜きか家の前の掃除。どちらも辛いものだ。
「ママン、何でベトナにはあんなに厳しいんだよ。」
私の怒声に釣られてやって来たホーが食ってかかる。ベトナが怒られるといつ
もこうだ。優しいには違いないが少々甘い。
「あの子が甘ったれだからよ。ホーはそうじゃない。だからベトナには厳しくする。」
「でもママンはやりすぎだ。」
「それでホーがベトナを甘やかす。ベトナをいじめたカンボジアとかアメリーに仕
返しをする。そういうこと?」
「それはあいつらが…」
「先にやったのよね。でもその後で謝りに行くのはパパとママンよ。あなたそこま
で考えてた?」
「考えて…なかったさ。」
「ホー、あなたは自分の身は自分で守れる。強い子だよ。でもね、自分の出来ない
ことまで噛み付くのは勇気じゃなくって無謀って言うんだよ。」
「……」
「どこ行くの?もうご飯よ。」
「ベトナもまだだろ?後で一緒に食べる。」
「あの子は罰で遅くなるの。あなたは先に食べなさい。」
一瞬ホーの目に怒りが浮かぶが、それを必死に押し殺し従う。
「……わかったよ……」
自分がどんなにひどいことをしているかの自覚はある。けれども今ここで手綱を
緩めるわけにはいかない。やっと家族が一緒に暮らすようになったのだ。その幸せ
をかみしめ、続けていく為にはそれなりの犠牲もまた必要なのだと最近しみじみ思う。
今のあの子達には私は鬼か悪魔に見えるかもしれない。でも、きっといつか解っ
てくれるだろう。そうしなければならなかったのだと―――
*
私の戦いの始まりは皮肉にも家族が一緒に暮らし始めてからだった。
独立と自由―――それを手に入れる為、私たち夫婦は命がけで店の切り盛りをやっ
てきた。
そしてやっと手に入れたささやかな暮らしは、新しい困難に直面することでしかな
かった。人生には物語のようなハッピーエンドの後があるのを迂闊にも忘れていた…。
とはいえまず血祭りにあげられたのは私自身だ。男からの貢物で生計を立てるのに
何の疑問も感じなかった私に、パパは容赦なく生活の改善を迫った。
夜遊びはしなくなり、服を買わなくなった。パパの言う事に従うのを強制され、一
時期は財布も握られたのだ。私は執拗に反抗したが、やがて無駄だと悟った。
パパが頑なな人だったのもあるが、良く考えたら二児の母がいつまでもちゃらんぽ
らんな生活をしている方がどうかしているのだ。自省するだけの分別を私は持ってい
たから、パパの言うことを聞くのも従うのもやがて疑問に感じなくなった。
今や家計は私が握り、七割方はパパより私の意思決定が店でも家でも幅を利かして
いる。パパはそれで不貞腐れたかというとさにあらず。今は私に重要事を任せっきり
にして、店の奥で好きな本を読むようになった。パパの満足そうな表情は、これで良
い事の表れでもある。つまり私は信用に足る存在になれたという事だ。
たまに怠けているパパを叱り飛ばしたくなるけど…
*
気が遠くなる。お仕置きでもこんなに広いところをちゃんと掃除するのは大変だ。
いや…冷静にいっている場合でもない。でも考えてないと涙が零れそうだ。
ママンは良く私に言う…
『お前は家の中で一番とろくて甘えん坊だからママンは厳しくするんだよ。ママンに
文句言う前に文句言われない子に早くなりなさい。』
わたしは、確かにそうかもしれない…家で一番ぐずでのろまだ。
兄さんはママンとパパの言いつけを良く守る。その上学校でいじめられそうになる
と必ず助けてくれる。わたしにとってかけがえのな兄さんだ。
わたしには優しい。でもママンはそれがいけない時もあると言う。人に優しくする
のは大切なことだ。でもそれがいけないと言うのは良く解らない。私が馬鹿だからだ
ろうか…
じわっと溢れる涙をもう止める事は出来なかった。箒を取り落としてその場にしゃ
がみこむ。啜り泣きが漏れないように必死で口を塞ぐ…
*
カンッカンッ
「ひのよーじん!」
カンッカンッ
「はなびいっぱつ けんかのもとー!」
全く面倒くさいことこの上ない。何で最近物騒だからって俺が見回りしなきゃいか
んのだろうか?俺だって子供だし、人攫いにでも会ったらどうするつもりなんだろう。
「こんな事しても帰ったら宿題やれとか家の手伝いしろとか言われるもんなー…勘弁
してほしいよ。」
とはいえ姉さんは行きたくもないカンコの家のほうに見回りに行っている。カイホ
おばさんが一緒だからあいつらが変なことしないだろうが…
「カイジおじさんは一人で遠くに行くし…こういう時なんか損だなあ男って。」
ぼやいても仕方ないし、適当にやって帰るほうがよさそうだ。
そんじゃせーの…
カンッカンッ
「ひの…………なんだ?」
叫ぼうとして人の気配に気がついた。月明かりの下でなんだか白い塊みたいなのが
人影にも見える。静かに近づくと、自分と同じ子供だとわかったので気配を消すのを
やめた。
近所にアオザイ着た女の子なんてそうそういない。姉さんと同じくらいの背格好と
いったら、ベトナさん…だよな?
もしかして…もしかしなくても…泣いてる?
情けないけどどうしたら良いか判らなかった。
『なんだっけ…どうだっけ…あ、そうだ!こういう時こそ有事に備えてリサーチして
おいた対女の子戦用マニュアル発動だ!』
タイワンさんの必勝戦術その1、女の子には優しく声をかける。
ええとそれから…その2、許可をもらって横に座る。
『でも泣いている子にどうしたらいいかなんて聞いてない。あああ、電話するわけに
もいかんし・・・どうしろって言うんだ。ええい!ままよっ!』
「あの・・・」
言葉が、出てこない。ベトナさんはゆっくりとこっちを見た。涙に濡れた頬と、う
るうるになった瞳がこっちを見る。おかげでますます頭は真っ白になった。
「ウヨ・・・すんっ・・・くん?」
まだ啜り上げている。必死でタイワンさんの言葉を復唱する。
その3、当り障りのない話題で相手の出方を見る。
「つ・・・月がきれいですね。」
「・・・すんっ・・・うん。」
何だろう?何かとてつもない誤爆をした気がするのは気のせいだろうか?
よし、次はなんだったっけ?あ、そうそう。
その4、相手の事を色々聞いてみる。
「ド…どうしたんですか?こんな夜に。」
「あのね、そうじ。」
「いや…その…掃除ですか。」
「うん。」
沈黙が流れる。……これでいいんだよな?でもなんでこんなに気まずいんだろう?
少しずつ、ベトナさんの嗚咽の間隔が長くなる。何にせよ泣き止んでくれるだけ
でも助かる。
それからやっと落ち着いてきたベトナさんは、隣に俺がいるのを思い出して、は
っとなると顔を背けてしまった。
こちらを改めて見た時、泣いていたことの照れ隠しなのか、ベトナさんは無理矢
理に笑顔を作る。何でそんな顔をするのかわかるだけに、こっちもやたらと照れく
さい。
『これ以上展開がないときは、次のステップに進むべし!』
力強く言っていたタイワンさんを思い出しながら、次が何だったか考えた。
ええっと、マニュアルその5、・・・・・・拒否されなければ押し倒すのも一興。
…いいのか?女の子は本当にそんな事を望んでいるものか?いやこの場合は年上
だし、そもそもどんな子にも当てはめて良いんだろうか?
流石に逡巡する。何だかあまりに無謀な気がしないでもない。しかし他にやりよ
うがあるかといえば、・・・ない気がする。・・・ま、まあここはタイワンさんを信じて・・・
かちっ
ベトナさんに近付こうとした瞬間背後に気配が動いた。どっと冷や汗が噴出して、
恐怖で振り返ることも出来ない。
「妹から離れろ。」
短い声は地の底から沸き上がるようだった。声に従い、ゆっくり立ち上がって両
手を無意識に上に挙げ、あとずさる。
そしてコケた。
『じいちゃん・・・俺は修行足らずここで逝きます。姉さんを守れないで申し訳ありま・・・』
「ところで君、だれ?」
今度は左後方から別の人物が近付く。足音も気配もなかった。
「ママン・・・この子はニホンちゃんの弟の、」
「ああ、ニッテイさんの忘れ形見ね。ホーもそんなに警戒しないの。この子は大丈夫よ。」
ホー?あの人が有名なベトナさんのお兄さん。起き上がりながら、やっとのことで
その顔を見る。不敵な表情、妥協を許さない鋭い眼光。でも意外なくらい小柄だ。
俺の視線に全く構わず、ホーチミンさんは無言で家に入っていった。
「それで、こんなところで何してるの?」
今気が付いたが、この人は誰だろう?そしてどうしてこんなに言い方がぶっきらぼ
うなのだろうか?きっと綺麗な人なんだろうけど、眼は何者も寄せ付けない強い光が
ある・・・。この辺はこんな怖い人しか住んでないのか?正直言って逃げ出したい。
「いえあの、夜の見回りして来いって言われて・・・」
「ああ、さっきのヒノヨジンて言ってたのあなた?いい声ね。」
「どうも。ところであなたは、」
「あれ?知らなかったっけ?私はベトナの母親。さっきの軍人が兄のホーよ。」
みなまで親が息子を軍人と言っている。ちょっと家とは家風が違いそうだ。たぶん
冗談と思うけど。
「さて、と。ベトナ。」
ベトナさんの肩がびくっと震える。泣き面は遥か彼方へ忘れたように消え、怯えと
一緒に絶対服従を誓ったような硬い表情になっていた。
姉さんの話していたベトナさんとだいぶ印象が違う。姉さんの話では、あのアメリ
ーが恐れて近付かない人物で、クラスでも大人扱いを受けていると聞いたのだが?
「早く家に入りな。ご飯冷めちゃうよ。」
「でも、そうじ・・・」
「今日はここまで。明日から少し早起きしてちょっとづつやってく。いい?」
「はい。」
「それじゃ中に入りなさい。食べたらちゃんと片付けるのよ。それから宿題。サボっ
たら今日みたいなのじゃ済まないからね。覚悟なさい。」
「はい。」
二人は俺を無視して中に入っていった。ベトナさんは家で毎日あの絶対零度の命令
を受けているのだろうか?俺が母さんからあんな言い方されたら、…どうだろう?反
抗できないかもしれない。そりゃ家であれだけ鍛えられたら、同級生は怖くないだろう。
まあ、いいや。見回り続けよう……拍子木を拾い上げ、法被の裾を正すと、俺も気
合を入れなおした。
カンッカンッ
「ひのよーじん・・・・・・」
*
次の日、姉さんとタイワンさんのお喋りを聞きながら登校した。
昨日の夜の出来事を反芻する。ホーチミンさんに完敗した。他はどうよりもそれが一
番衝撃だった。
「あ、ベトナちゃんおはよー」
「おはよう。」
能天気な姉さんの声に、いつも通り静かな声でベトナさんが答えた。俺はどうもベト
ナさんの顔を直視できない。
姉さんたちの会話にすぐ入らず、ベトナさんが俺にすっと近付く。
「ねえウヨ君…、昨日のことだけど、その…二人の秘密にしてもらえるかな?」
「え…、も…勿論です。武士道の誇りに賭けて、一言半句他人に漏らしません。」
少し声が上ずった気がするけど、気にしない。…事にした。
ベトナさんはぱっと喜色を浮かべて、「ありがとう」と短く言った。その笑顔ははにか
みと嬉しさの混ざった、何とも表現のしようがないくらい綺麗な笑顔だった。
気が付くと、姉さんとタイワンさんがじーーーーっとこちらを見てる。
「ウヨー、ベトナちゃんと内緒ごと?姉さんに聞かせてごらーん…」
「あらあら、ラスカちゃんという人がありながら、年上の女の人の方がいいのかしらねえ?
おませさん…」
二人がどう表現したらいいか解らない程、好奇心と野次馬根性丸出しで俺にじりじり
近付いてくる。冗談じゃない。ベトナさんの秘密をここで漏らす訳には…その上気が付
けば背後の植え込みにこちらを伺う気配が…
「じゃっ、そういうことで、俺先に行くから!」
そう言って逃げ出す。前門の龍、後門の虎。冗談じゃない!
「ちょっとウヨ!何なのよー!」
「こらーっ!逃げるなー!」
声に振り向く気はなかった。しかし、暫くどうやって追求を避けるか考えなくてはいけ
ない。かわさないと…かわさないと俺は……。
*
あれからどれ位経ったのだろう。シエスタのまどろみは私を思い出に誘う。
近所から総スカンを食らってそれにただひたすら耐え、家族の融和を図る為に全ての力を
注いできた。一緒に働くことを待ち望み、それを果たした従業員たちも、馴染めずに何人か
は去っていった。
全く上手くいかないものだ…。本当にままならないものだ…。
必要以上にベトナに辛く当たるのも本当にしたくない。出来るなら毎日でも抱きしめてや
りたい。でもそれじゃ駄目なのだ。ホーもベトナもそのうち一人で生きていかなければなら
ないからだ。
誰も味方がいない事だってある。そんな時に絶望せず、自らの意思を貫いて闘っていかな
ければならない。戦いの中で妥協し、服従を強いられ、本心を隠して応対しなければならな
い時もある。世の中に送り出すとき、一人前にしてやれるかどうかは親の責任なのだ。
最も私は神様に感謝しなければならない。責任感と強い意志に恵まれたホーと、優しく思
いやりのあるベトナ。あの子達なら力強く生き抜いていけるに違いない。そう信じるからこ
そ今から徹底的に鍛え上げなければ…。
そう。二人とも私のかけがえのない宝物なのだから―――。
終 劇
解説
有閑工房回折
投稿日: 03/09/17 21:23 ID:k9Smbjcf
解説・忌憚・尊師解脱
毎度毎度になりました。有閑工房です。
※今回はベトナム南北分断その後です。ベトナムは三十数年の分断の後に統合されましたが、
本当の苦難は統一後にやってきました。
各国の経済制裁。国内にわだかまる勝者の優越と敗者の卑屈。全国民に強いられる窮乏と
溢れ出す亡命者の群れ…国の理が変わり、同じだと信じていた人々が経験する苦悩と錯誤
の連続は、我らが隣国にも他人事ではないでしょう。東西ドイツ、南北イエメン、分割され
るユーゴスラビアやチェコスロバキア。融合と破綻は世界中で繰り広げられています。
正直なところ、物理的に半世紀、精神的に六十年近く分断された国家がもし統一されたと
して、どのような悲喜劇が繰り広げられるかは想像も出来ません。
このお話はウヨ君の勘違いが間に挟まれていますが(話を軽くする為)、恐らく周辺諸国
に壮大なインパクトを与えるであろう南北統一を遠巻きに眺めるお話に致しました。語るま
でもないですが、三十年であの混乱振りです。世代が二回転以上している国は一体どうなる
のでしょうか?
これから起こることを隣人としてある程度の覚悟は必要ではないかと思います。
※ウヨ君の有事マニュアルは、対ラスカちゃん専用だった模様(w。状況を想定してのマニ
ュアル整備は必要ですが、起こる事件は斜め上ってのが良くあるもんで、『作ったけど役立
たず』と言うのに対する風刺でもあります。まあ、『押し倒せ』ってのはどうかと…
※『独立と自由ほど尊いものはない』はサイゴンの戦勝式典で掲げられた横断幕だそうです。
元はホー・チ・ミン語録の「自由と独立ほど尊いものはない」。
わざと逆に書くのはそれだけ単一国家としての独立に思い入れが強かったっからか、統一後
の『自由』よりも『独立』を優先する決意を表すものだったのか…。
文字が多すぎた上にやたら長くてすんまそん。
以後気をつけます。だから許してねママン。……またやっちゃうかも知れんけど……
※ソースはこちら
HP:
↓ベトナビ。検索に便利です
ttp://www.vietnavi.com/vietnavi.html
↓ベトナムデジタルギャラリー。ここのベトナム資料室は詳細でわかりやすいです。
現実の厳しさがまざまざと…うーむ。
ttp://www5c.biglobe.ne.jp/~vdg/
↓海上保安庁です
ttp://www.kaiho.mlit.go.jp/info/books/report2002/nonframe.html
その内の東南アジアにおける海賊対策。海猿がんがれ!
ttp://www.kaiho.mlit.go.jp/info/books/report2002/nonframe/topics/01_5.html
書籍:
「目撃者」「したたかな敗者たち」/近藤紘一
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