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第1679話 有閑工房1 投稿日: 03/10/14 20:08 ID:E4ltBgYT
―還らぬ海路を進んだ、名も無き人々に捧げる―
『とおくにありて おもうもの』前編

         第1夜
 空を横切る飛行機雲、遠い彼方へ消えて行く。
 手を伸ばして掴むことが出来るなら、とても自由になる気がした。

 家出してしまった。
 最近のママンはいくらなんでもひどすぎると思う。失敗したりしたときに怒られ
るのは解る。けれど、どう考えてもママンの不機嫌のとばっちりも多い。初めて
ママンと言い合いになって、今こうして夜の道を歩いている。大丈夫、わたしは
大丈夫なんだと言い聞かせる。帰りたい思いと二度とママンの顔を見たくない思い
が交錯する。
 そういえば部屋から思いついたものをまとめて出てきた。何を入れて来たか覚えて
いない。ふと立ち止まってカバンの中を見てみる。教科書が一揃いとお気に入りの
人形。それはまあいいとして、どうしてわたしは今日の新聞とかホー兄さんの虫眼鏡
を持ってきているのだろう…
「なんでだろ?」
 自分で解んないからどうしようもない。とはいえさすがに寝る所は何とかしたい。
いざとなったら一人ででも生きる。わたしはそれくらいの覚悟をしている…つもりだ。
 気が付けばここはタイワンちゃんの家だ。待ってても始まらないので玄関の
呼び鈴を鳴らした。
「ハーイ」
 学校で聞き慣れた声がして、ドアががちゃりと開く。
「どちら…て、ベトナちゃん?」
 もうお風呂に入ったのか、パジャマ姿のタイワンちゃんが驚いている。
「ごめん、タイワンちゃん、ちょっといい?」
「へ?」
 返事も聞かずにわたしはタイワンちゃんの腕を掴むと玄関前に引きずり出した。
「ちょちょちょっと、ベトナちゃん!!」
 体勢を崩しかけてタイワンちゃんが慌てる。
「一体どうしたのこんな夜にいきなり来るなんて。それに、そのカバン…もしか
して。」
「そう。家出してきたの。」
「いえで…」
 タイワンちゃんは絶句している。それがちょっと不思議だった。わたしなんか
よりよっぽど家出だとかは縁がありそうなんだけど、それはわたしの思い違い
だったのだろうか?
「それで…どこかアテあるの?ほら、ご飯とか寝るところとか…」
「それがね、ないの。」
 隠しても仕方がないし正直に答えた。タイワンちゃんはまじまじとわたしの顔
を覗き込む。
「ベトナちゃんて、冷静で慎重て思ってたけど、結構勢いで行動しちゃうタイプ?」
「わかんない。」
 そんなふうに自分を見つめたことはない。いつも目の前のことに必死だった
からだ。タイワンちゃんはわたしの答えで大体納得したようだ。どう納得したか
興味もあるけど、聞かないことにした。なんだか、聞くのが恥ずかしいから。
「それで、今日だけでも泊めてくれないかと思って。」
 少しタイワンちゃんは考え込んだ。もし逆の立場だったらわたしは断っている
かもしれない。そのことを考えると別に断られてもいいと思っていた。その時は
また別の家にお願いしに行く気だったのだ。
「ちょっとまってて。」
 そう言うとタイワンちゃんは家の中に引っ込んだ。どうやらお父さんとお母さん
に話しているようだ。タイワンちゃんがなじられる声がする。それでも必死に言い
募っているみたいだった。少ししてタイワンちゃんが戻ってきた。
「オッケーだよ。今晩だけだったら泊めてもいいって。」
 情けないことにそれで一気に安心した。
「ありがとう…」
 あとは言葉にならなかった。タイワンちゃんが戸惑っているのが滲んで見える。
引きずられるように家の中に入れてもらい、タイワンちゃんのご両親から暖かい
言葉をかけてもらった。それだけで心の底から嬉しかった。
 一緒のベッドにもぐりこんだタイワンちゃんとおしゃべりに花が咲く。それは
一時の気休めだったかもしれない。勿論こんな夜ばかりじゃないのはわかっている。
単にママンから逃げ出しただけなのもよく分かっている。
 でも、それを忘れたかったと言うのは我侭なんだろうか…
 夜が、深くなる。
    第2夜
 水面に漂う木の葉は、一体どこに向かうのだろうか。
 漂ってしまえば、誰も何も考えなくなってしまうのだろうか。

 学校でわたしの事は一気に噂になったらしい。少し居たたまれない気分になる。
フラメンコ先生に昼休憩のときに呼び出され、ママンがめちゃくちゃ怒っている
のを聞かされた。どっと気が重くなる。
 職員室に行っていた間にタイワンちゃんはニホンちゃんに声をかけ、今日わたしが
ニホンちゃんに世話をかけるように交渉していたらしい。その事を後になって聞いた。
 帰り道、半ば強引にタイワンちゃんの手に引かれ、ニホンちゃんの家を目指した。
ニホンちゃんは何の逡巡もなくにっこり笑いながら「いいよー」と言ってくれた。
ニホンちゃんの言葉はわたしが実はそんなに大した事をやっていないような気分
にさせる。
「ねえ、今ベトナちゃんが何考えてるか当てようか?」
「え?」
 タイワンちゃんが悪戯っぽく笑いながら訊いてきた。
「『ニホンちゃんのパパが駄目だって言ったらどうしよう』とか考えてるでしょ?」
 わたしは赤面して俯いた。タイワンちゃんの言った通りだったし、考えていた
ことを読まれて恥ずかしかった。でも、何となく嫌な気分ではなかった。
 わたしは、誰かに心を晒すのが恥ずかしいことだとばかり思っていた。でも、
もしかしたら違うのかもしれない。何となくそう思う。
「ただいまー。」
「お帰りさくら。」
 ニホンちゃんのお母さんだ。
「ベトナちゃん、事情は聞いてるわ。さ、遠慮なしにどうぞ。」
「は…ハイ。」
「ほうら、ベトナちゃんも固まってないで上がるよ。」
 陽気なタイワンちゃんの声は屈託がない。術が解けたようにわたしは靴を脱ぐ。
ちらっと見たタイワンちゃんは我が家のように振舞っている。すこし、羨ましい
なと思う。
「お、お邪魔します。」
 ニホンちゃんのママはにこやかに笑う。わたしはいわば厄介者なのだけど、
どうして笑っているんだろう?まるでわたしが何を考えているかわかったかの
ようにそっと頭をなぜてくれる。そして誰にも聞こえないように小さな声で言った。
「気が済むまでここにいていいよ。あなたのママも心配してるみたいだけどね。」
「ママンが?」
 意外だった。というより、ママンがそんなことを思うはずないと思った。
「あのねベトナちゃん。親ってのはどこまでも子供が心配なのよ。」
 ニホンちゃんのママが相変わらず頭をなでなでしている。他はそうかもしれない
けど、うちはそうじゃない気がした。…違うのだろうか?
 夕方になるとタイワンちゃんは元気に帰っていった。晩ご飯の準備は居たたま
れないので一緒に手伝わせてもらう。ニホンちゃんのママはしきりに誉めてくれた
のでとても照れくさかったけど、正直に言えばとても嬉しかった。
 晩ご飯はとても賑やかだった。ニホンちゃん一家にはザイ君やザイニーちゃん
もいたのを思い出す。そうか、色々あるんだろうけどこの二人もニホンちゃんの
家に厄介になっているんだった。
 そしてなぜかアサヒちゃんもいる。
「ご両親に裏切られ、かわいそうにも天涯孤独の身になったベトナちゃんを
受け入れることは日乃本家にとっては過去の過ちを償う絶好の機会よ!ぜひベトナ
ちゃんを養女に迎えるべきだわ!それが日乃本家の定め、いや掟なのよ。」
 なんだか一人で燃え上がっているけど、わたしは裏切られた訳でもなくて、
可愛そうな訳でもない。確かにこのままだと天涯孤独だろうけど、養女に入れて
もらうほど甘える気もない。それから過去の償いって何の事なんだろうか?それを
聞こうと思ったら、アサヒちゃんは食べるだけ食べてさっさと帰ってしまった。
…ごはん、食べに来ただけなんだろうか?
 他の人たちも苦笑いしながらアサヒちゃんの言う事を聞いていた。ニホンちゃん
はわたしを済まなさそうに見ていたけど、『べつに気にしてないよ』と目配せしたら、
少し安心したようだった。だって、本当に気にしていなかったし。
 ご飯のあと、ニホンちゃんと一緒にお風呂に入った。よく考えたらニホンちゃん
の家に泊まるのは初めてだ。脱衣場でためらっていると、先にすっぽんぽんになった
ニホンちゃんに無理矢理脱がされてしまった。恥ずかしくて縮こまっているわたし
をお風呂場に押し込む。必死に火傷の痕を隠していると、ニホンちゃんは何も言わず
ににっこり笑ったままその手を引き剥がす。残酷な仕打ちだけど、声に出して言わな
くても解る。
『気にしちゃ駄目だよ。』
 と言っているのだろう。それでも拘って俯いているわたしに、ニホンちゃんは
頭から思いっきり湯をぶっかけた。
「やああーーん。」
 びっくりして自分でも意味不明の声を上げる。
「あはははははは、ベトナちゃん貞子みたーい!」
 さだこってなんだろう?それはそれとしてやられたらやり返さないと気が済まない。
手近にあった洗面器を掴むと笑い続けるニホンちゃんの真正面にお湯をぶちまける。
「あははは…はっ!!」
「…お返し。」
 一瞬怯んだニホンちゃんだけど、瞬時に目つきが変わってシャワーに手をかけた。
わたしもすかさず湯船に洗面器を突っ込む。その振り返りざま、
「やあああーーーー!つめたーーーい!」
 ニホンちゃんは水シャワーで仕返ししてきた。わたしも蛇口をひねると指で出口
を押さえてニホンちゃんに直撃させる。それからは二人とも夢中で水のかけあいこ
をしていた。あまりにうるさいのでニホンちゃんのママが怒りに来て、それでやっと
静かになった。ニホンちゃんのママがいなくなった後で、二人でくすくす笑いあって
湯船に頭まで入った。なんだか久しぶりに弾けてしまって気分がいい。それは
ニホンちゃんも同じみたいだった。
 お喋りして、大騒ぎして、夜が更けてゆく。
 昨日は何を考えていたっけ?まどろみの中で考えながら、私は目を閉じた。
       第3夜
 変わることは難しい。変わることは突然に。
 誰も望むままにやってこないもの。例外なく。違いなく。

 今日も同級生の視線が突き刺さる。別に気にしてはいないけど、その中に
混ざっている好奇心めいた視線にはどう対処していいか解らない。
 昨日ニホンちゃんのママに服を無理矢理洗濯されてしまい、今日はニホンちゃん
の服を借りている。迂闊にもわたしは着替えを用意していなかった。わたしが
チェック柄のシャツにスカート姿をしている。自分でも鏡で見てどぎまぎして
しまった。あまつニホンちゃんは面白半分で髪をポニーテールにしてくれて、
それがわたしと周りの違和感を更に掻き立てる。誰もがどう声をかけたものかと
逡巡してるけど、それはわたしも一緒だった。
 昼休みにタイラン君が校舎裏に呼び出した。近所だけどあまり話したりする仲
じゃない。というか仲が悪い。少し嫌だったけど、舐められるのはもっと嫌なので
行くことにした。でもそこにいたのはタイラン君だけでなくホー兄さんもいた。
わたしが来るとタイラン君はそそくさと教室に戻る。
「元気だったかベトナ。」
「うん。ごめんね。」
 後に続く言葉がなくても、ホー兄さんとは解り合える。嬉しいことだと思う。
「まだ戻らないのか?」
「戻りたいけど…」
 ――戻りたくない。後の言葉をとっさに口ごもる。なんだかもやもやしてて、
今の気持ちを上手く表現できない。もどかしいな、どうして言葉は全部伝えられ
ないんだろう。
「ベトナ、気の済むまでやればいい。家の事は心配するな。気が済めばいつでも
帰ってくればいい。」
「うん…」
 それからしばらくホー兄さんは黙ってわたしを見ていた。別に責めている訳
でもない。単に見ていたのだろう。わたしは俯いてまともに顔を見れなかった。
まごまごしているうちに、気が付けばホー兄さんはいなくなっていた。
 その夜、寝付かれずに何度も寝返りを打っていた。もう寝たと思っていた
ニホンちゃんがそっと手を握る。
「ベトナちゃん、だいじょうぶ?」
 返事が出来ない。なぜなんだろうと自分でも思った。答えの代わりにすこし強く
ニホンちゃんの手を握り返す。ニホンちゃんのパパとママがひそひそ話をしていた
のを思い返していた。話の中にわたしの名前が出ていたから察しはつく。
 ここは居心地がいいけど長く居れない所かもしれない…。
「ニホンちゃん…」
「なあに?」
 たぶんこっちを見ている方向に静かに言う。
「あした、他の子の所に行こうと思うの。」

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