戻る <<戻る | 進む>>
第1909話 ab-pro 投稿日: 04/06/21 23:04 ID:RfQZxcmL
与えられた仕事を果たすことができずに、傍観するしかなか
ったヨーロッパ・ピクニックから家に帰って数ヶ月。
 アーリアは灰色の壁を見つめていた。

 私の家が今まさに迷走を続けているように、私自身の心も迷
走を続けていた。
 ゴルビーおじさんの営業改革に始まる東ユーロ町の改革の大
きなうねりが、我が東ドイツ家を飲み込もうとしている。
 ハンガリー家のガリーが開催したヨーロッパ・ピクニックと
それに続く鉄の壁の解放に、ついにチェコスロバキア家も倣っ
た。
 チェコスロバキア家は我が家と唯一許可なしで行き来ができ
るお隣さんだっただけに、今や我が家から逃げ出したがってい
る従業員たちが奔流となって我が家を後にしようしている。
 一時はチェコスロバキア家との出入り口の封鎖も実施された
が、多くの従業員の抗議の前に、封鎖は数日で撤回するしかな
かった。
 そしてゴルビーおじさんの訪問。
 『ゴルビー、助けてくれ!』というプラカードを手に手に持
った多くの我が家の従業員たちの行進。
 それを阻止しようとした私の同僚たちは、『シュタージは出
て行け!』という大ブーイングの前に撤退するしかなかった。
 その群衆に向けて、ゴルビーおじさんはこう声をかけた。
 『行動したまえ!』
 そして私。
 最近は仕事中にも集中力が途切れがちになってしまう。私の
仕事からすれば致命的な事だ。
 今まではこんな事はなかった。東ドイツ家を内から支えると
いう使命に全力を注いできたのに。
 しっかりしなければ。私はプロなのだから・・
 そんなせいだからかもしれない。シュタージおじさんが休暇
でも、と言ってくれたが、でもそれもできなかった。
 仕事がない時。一人でいる時。頭の中が空白になってしまう
と決まって、思い出したくもないあの光景が頭の中で繰り返し
リフレインされてしまう。

 開かれたハンガリー・オーストリアの鉄のカーテン。
 そこを通り抜けた後。私たちの家を捨てたかつての同胞たち
の、心の底からの喜びを表した笑顔。

 『私は最近あんな笑顔を浮かべたことがあった?』

 その答えを思い浮かべようとすると、なんだか目頭が熱くな
ってきて、あわててシュタージおじさんに鍛えられた意志の力
でそれを押さえつける。
 頭の中で理性に押さえつけられて一時の撤退を強いられたも
う一人の私が、『答えを知りたくないの?』と私に囁きかける。
 私は頭の中で耳を塞いだ。
 
 だから、突然視界の中に差し出された西ドイツ市民用のゲー
ト通行証を認識したとき、私は私の中の思考の泥沼から救われ
たと思った。
 しかし、・・・・

 日ノ本・・・、サクラ!!

 私の目の前に現れた少女の名前。
 我が家と同じく、先の第二回地球町大喧嘩でアメリー君の家
にボコボコにされながら、西ドイツ家よりもさらに家を繁栄さ
せ続けている大金持ちの家の娘。
 私は何とか平静を装いながら、もう一度丹念に通行証に目を
通す。違う名前が記されていたが、どう見ても正規の通行証の
顔写真は、目の前の少女と同じ長い黒髪の東洋系のそれ。
 間違いない。
 私は仕事上詰め込んだ記憶をもう一度なぞった。
 今の私の仕事は、こうしてゲートを通る人間の中から私たち
の仕事に役立つ人間をピックアップして、待機している仲間に
知らせること。
 例えば。
 獲物を示された仲間は、闇の両替屋を装って闇レートでの両
替を持ちかける。そして相手が違法な両替に応じたところで別
の仲間が身柄を拘束。後はどう料理するかはその時次第。
 だから、私は西の重要人物等の顔写真をすべて記憶している。 

 しかし!
 ここは西ドイツ市民用のゲート。
 よその家からの来訪者はチェックポイント・チャーリーと呼
ばれる、チェックの厳しいゲートからしか出入りができない。
 それを避けて、身分を偽装してまで東ベルリンの間に入ろう
としている目の前の少女。何か重大なスパイ工作を企図してい
るのだろうか?
 そこまで流れ着いた私の思考は、再び少女の顔を眺めたとこ
ろで止まった。
 
 おどおどとした、『儚げ』を絵に描いたような少女。
 その態度はあからさまに自分が渡した通行証の出所の怪しさ
を表していた。
 ちょっと気の弱そうな『普通』の少女。
 ・・・・私とは違う。私とは・・・・

 あまりにも自分の考えにとまどっていたせいかもしれない。
ずっと私に見つめられていた少女は、さらに戸惑ってしまい、
みている私までハラハラしてしまう狼狽ぶり。
 私は慌てて手にした彼女の通行証を返す。そして、少し躊躇
した後に口を開いた。
 ここは両ドイツ家の従業員用のゲートですよ、日ノ本サクラ
さん、と。

 突然、自分の本名で呼ばれた目の前の少女は、今にも泣き出
しそうになりながら、身を固くしていた。
 その可哀想なぐらいの彼女の様子に、私は確信した。
 こんな少女にスパイ活動なんてできるはずがない。
 たぶん、少女が東ベルリンの間に遊びに行くことを知った西
ドイツ家の誰かが、出入りが簡単なこのゲートを通れるように
西ドイツ家の通行証を作ってあげたのだろう。
 怯えきった少女を安心させてあげようと、私は微笑みを浮か
べようとしてやめた。上手く微笑める自信がない。
 慌てて言葉を続ける。

 次からはチャックポイント・チャーリーを通ってください。
よい旅を、と。

 私の言葉に、一瞬泣き出しそうだった顔をキョトンとさせる
少女。なんだかとても可愛く思えた。
 そして私の言葉を理解したらしく、あわてて何度もお辞儀を
する。そのたびに長い黒髪が宙を舞っていた。
 私は仲間がいる場所を避けるような道筋を教えて、歩み出す
少女に手を振る。
 何度も振り返ってはお辞儀をする少女の顔には、さっきの泣
き出しそうなそれとはうって変わって、こぼれだしそうなほど
の笑みがあった。

 そんな私と同い年の少女の笑みを見送りながら、硬い表情を
崩すことが出来なかった私は、何故か泣きたくなった。
 私は、あんな風にはなれない・・・・
 それから数日後。11月9日18時56分。それは唐突に始
まった。

 ゲート詰め所の中は騒然としている。テレビを通じて宣言さ
れたゲートの解放宣言。
 しかし、そんな命令は一切私たちには伝えられていない。
 私は慌ててシュタージ本部に電話をしたが、対応は要を得な
い。同じくゲートの警備員たちにも真相は伝えられていなった。
 私たちが混乱している間にも、ゆっくりと、しかし確実に、
我が家の従業員がゲートの前に集まり始めていた。
 警備員たちが緊張した面持ちで、私の方をちらりと覗き見る。
その手にしている銃に込められているのは実弾。その銃と使用
者に与えられた使命は、無許可で壁を越えるものを射殺するこ
と。
 それてシュタージの一員である私の前で、警備員たちはその
義務を果たさなければならない。
 とうとう、詰め所に正式なゲートの開放命令が届かないうち
に、ゲートに押しかけていた従業員たちが、警備員たちと押し
問答を始めた。
 私たちは帰ってくる、と口々に叫ぶ従業員たちの数は、もう
警備員の銃によってでさえ止めることが出来ないと思えるほど
に膨らみ、さらに増え続けている。
 硬い表情の警備員の隊長が、私と外の従業員に視線を移しな
がら、どうしますか?と私に尋ねる。
 隊長の指は銃の引き金に掛けられていたが、その視線は銃か
ら背けられていた。
 
 私は黙って瞳をつぶった。
 物心ついた時から、私はシュタージだった。今更何かを変え
ることができるのだろうか・・・・
 私は握りしめていた銃に、さらに力を込める。
 でも、
 『もう答えは出ているんじゃない?』

 心の奥底に押し込めていたはずのもう一人の私が囁く。
 それと同時に、真っ暗な視野に浮かび上がってくるのは、も
う何度も頭の中で繰り返されたあの光景。

 開かれたハンガリー・オーストリアの鉄のカーテン。
 そこを通り抜けた後。私たちの家を捨てたかつての同胞たち
の、心の底からの喜びを表した笑顔。

 しかしその情景のBGMは、たとえ耳を塞いだとしても私の
鼓膜を振るわす、詰め所の外の「ゲートを開けろ!」という大
合唱。

 そんな不満のオーケストラは聴きたくはない。私はあの光景
をもう一度見たいんだ!

 そうだ。答えはあの時から決まっていたんだ。
 たとえ私は上手く笑えなくても、私はみんなの笑顔が好きに
なったのだ。それほどに、ヨーロッパ・ピクニックで見た同胞
たちの心の底からの笑顔に魅せられていたのだ、私は。

 私は銃を手放すと、瞳を開いて隊長を見た。
 「この銃は同胞に向けるためのもではない。同胞を守るため
のもの。ゲートを開けなさい。私が全責任を持ちます」
 私の言葉に一瞬だけ身を硬直させた隊長は、次の瞬間には目
一杯の笑顔になって敬礼した。
 「了解です!」
 その直後。
 アーリアは、詰め所を揺るがすほどの、なんと表現すれば分
からないほどの大歓声に包まれた。
 ゲートが開放され、あたりは混乱・狂喜・呆然・号泣とか、
ありとあらゆるものに覆い尽くされていた。奇声の輪唱、喜び
の大合唱、ゼクト(発泡酒)のコルクの連射音。
 そのすべてに共通するのは純粋な喜び。
 外に出て狂喜乱舞の現場を直に眺めながら、アーリアは静か
に涙を流していた。そう、嬉しいのに泣いていた。今まで笑っ
たことがなかったので、どうすれば笑えるのか分からなかった
から。
 でも、決して悲しくはなかった。
 そんなアーリアの横に、ジュースを湛えたグラスを二つもっ
た隊長が横に並んで、グラスを渡した。
 「こんな素晴らしい夜に乾杯しましょう、フロイライン!」
 「・・そうだな。
 では、みんなの笑顔に乾杯!」
 そういって高々とグラスをかかげるアーリア。それに隊長が
唱和した。
 「初めて見せていただいた、アーリア嬢の笑顔に乾杯!!」
 隊長の言葉に、戸惑いの表情を浮かべるその一瞬前まで、ア
ーリアは 歓喜の涙を流しながら、至福の笑みを浮かべていた
のでした。               END



 やっと書き上げました!
 といっても、もうモノローグはごりごりですTT 壁崩壊は
直接的には東ドイツの単独事故みたいなものですからね^^;
 読みにくいでしょうが、平にご容赦を m(_ _)m
 作中のニホンちゃんのソースは、当時の防衛駐在官の体験記
です。

この作品の評価を投票この作品の評価   結果   その他の結果 Petit Poll SE ダウンロード
  コメント: