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第2321話 ab-pro 投稿日: 2005/08/15(月) 22:43:20 ID:AsWN0eAB
 その刻。
 彼女。いや、彼女や時には彼は、世界のありとあらゆる場所で、運命の歯車と
して動き続けていた。
 独り独りの彼女や彼たちは、もちろん世界の運命なんて実感した事もないだろ
う。
 しかし、アマゾンの蝶の羽ばたきが、数時間後に北京で大雨を降らせるように、
彼女や彼は、確実に世界の運命を前進させて・・・・
 そして


 月影。<あやふやなもの・眉唾>

 紫苑ちゃんの想像は、まさに幻のようなアイディアでした。
 とても不吉な思いつき。でも、そんな事は起こるはずもない。
 それでも紫苑ちゃんがそのアイディアにビクトリアさんに打ち明けたのは、た
だ漠然とした不安以上のものがあったからかもしれません。
 
 「・・まあ、確かに恐ろしいアイディアではありますわね。
 分かりました。
 貴方のアイディアは秘密にする価値があると認めましょう」
 
 そう言って、私のアイディアを秘密にしてくれる事を約束してくれたビクトリ
アさんも、内心、万一の保険ぐらいにしか考えていなかった事は、彼女の表情か
らありありと読み取れたものです。

 しかし。
 ナッチ社で発見された原子の炎の瞬き。
 それは、紫苑ちゃんが思い描いた月影のアイディアを、現実に変える事が出来
る大きな発見。
 まだ恐ろしい未来を想像する事もなく、大はしゃぎで世界中がさらなる発見を
求めて原子に挑んでいく中、彼女はどうする事も出来ない焦燥に、胸を焦がされ
ていました。

 巨大な花火。そして、ユーロ町で猛威をふるうナッチ社の暴力。

 紫苑ちゃんは動き始めました。世界の滅亡を防ぐために。

 「でも、私の言う事に耳を傾けてくれる人、いるのかしら?」
 思わずため息をつく紫苑ちゃん。
 自分の家もなく、よそ様の家を渡り歩いている紫苑ちゃん。みすぼらしい格好
の彼女が、先にビクトリアさんのご尊顔を拝するまでに、どれだけの努力が必要
だったか、思い出すだけでもげんなりしてしまいます。
 しかし、紫苑ちゃんの一族に対して、酷い弾圧を続けるナッチ社。もし、原子
の炎の瞬きを最初に発見したナッチ社が、彼女の月影のアイディアを、いち早く
現実にしてしまったら!
 「このままでは、私達は地球町でいるべき場所を失ってしまう。
 ナッチ社よりも先にあのアイディアを実現しなければならないのに。誰か私達
の苦境を理解してくれて、大店の社長さんにも顔が利く、理想的な助っ人でもい
ないのかしら・・・。!!」
 いました!
 まさに絶好の助っ人を思い出した紫苑ちゃんは、慌ただしく古びたトランスバ
ックに手荷物を詰め込むと、メリケンさんの家に駆け出していったのでした。
 巨大な敷地を誇るメリケン社。
 その一角に、ナッチ社から逃げ延びた一石博士が滞在していました。
 地球町で一番高名な科学者である一石博士でさえも、その血に紫苑ちゃんと同
じ血が流れていたために、ゲルマッハ君の家に留まる事が出来なかったのです。
 メリケンさんの家に駆け込んだ紫苑ちゃんは、まっすぐに一石博士の部屋に駆
け込んだのでした。
 
 「やあ、紫苑ちゃん。どうしたんだい、そんなに慌てて?」
 実に好々爺とした感じの一石博士が、暖かく紫苑ちゃんを迎えますが、紫苑ち
ゃんは挨拶もそこそこに、彼女のアイディアと原子の炎の瞬きのことが書かれた
レポート用紙を博士に突き出しました。
 「お爺ちゃん!
 掛け値無しで、地球町の未来がかかっているの。私を助けて!」
 真摯な紫苑ちゃんの瞳に、手渡されたレポートに黙って目を走らせる一石博士。
長目のレポートを一読すると、彼はゆっくりと顔を上げました。
 「確かに、地球町の危機、だね。
 紫苑の計算が正しければ、理論的にはこの地球町を覆い尽くすぐらいの巨大な
花火も出来てしまうだろう」
 あっさりと真実を読み解いた一石博士は、深刻な表情で深く頷きました。
 「そうよ、お爺ちゃん。もしナッチ社が地球町で最初にこの花火を開発してし
まったら、世界はもうお仕舞いよ!
 それを防ぐためにはメリケンさんの家で、ナッチ社よりも先にこの花火を完成
させるしかないけど、私の話なんて誰も聞いてくれない。
 お爺ちゃん、手伝って!!」
 まさに世界を救うため懸命な紫苑ちゃんに、一石博士は優しく頷きました。
 「分かったよ、紫苑ちゃん。私からメリケンさんに手紙を書いてみよう。
 メリケン社で真っ先に花火を作ってもらうように、と」
 それだけ言うと、一石博士はすぐに机に座って手紙を書き始めたのです。
 そして。
 メリケンさんの執務室。
 一石博士の手紙を何度も読み返したメリケンさんは、側に控えていた秘書に、
笑顔で話しかけました。
 「君、知っているかい?
 昔、ユーロ町を制覇していたナポレオンに、ある男がこんな話を持ってきた。
『私に資金をくだされば、風が無くともドーバー海峡を2時間で渡る、帆のない
船を造って見せましょう』
 と。するとナポレオンはこう答えたんだそうだ。
 『予は、世迷い言など聞く耳持たぬ』
 とね」
 いかにも愉快そうに語るメリケンさんに、秘書は礼儀正しく聞き返します。
 「それで、そのペテン師の名前は?」
 「ああ、そのペテン師の名前はロバート・フルトンと言うのさ!!」
 そしてひとしきり笑ったメリケンさんは、厳しい顔に戻って秘書に命じます。
 「私はナポレオンのような愚か者になる気はない。
 一石博士の提案を認めよう。
 確か我が社にも優秀な紫苑一族の科学者がいたね。彼に任せよう。
 この花火開発競争に負けるわけにはいかない。考えつく全ての手段を試す事を
認めよう。何があってもナッチ社に負けるわけにはいかない!」

 こうして運命の歯車は、その動きを急加速し始めるのです。
 地球町を救うために。その思いから動き始めた歯車は、その日に向かって、止
まることなく。
epilog
 ナッチ社、社長執務室。
 一枚の報告書を読みながら、ナッチ社長はぽつりと呟きました。
 「・・・科学者は、そのうちこの町を焼き尽くしてしまうかもしれないな。
 まあ、今の戦いに間に合う事はないだろうが」
 
 確かに、ユーロ町での戦いには間に合いませんでした。
 そして、運命の地、広島へ・・・・
                                 end

 8.15と言う事で、この企画の最終話です。
 今回の紫苑ちゃんは、ベルギー系ユダヤ人科学者、レオ・シラードです。
 核分裂現象発見前から、イギリスで原子爆弾の秘密特許を持っていたシラード
は、核分裂現象発見でナチスドイツが原子爆弾を持つ事を恐れて、一石博士に働
きかけてルーズベルト大統領に手紙を書かせる事になります。
 ちなみに、オッペンハイマーもユダヤ人でした。

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