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第1681話 有閑工房10 投稿日: 03/10/15 10:41 ID:4RrR1Ndg
『とおくにありて おもうもの』後編

      第4夜
 必死で掴んでいた手を離したとき、そこにあるのは不安だった。
 泣きながら追いかけていたのはいつの日か。今もまだ追いかけているのか…

 言い出したこには決して後悔しない。それがわたしが自分に課した掟だ。
そりゃあ、いつもそうとは限らない。適当にやったり妥協したりもする。だから、
『できるだけ』そうするようにしている。…それじゃ駄目だろうか?
「お前から呼び出し食らうなんて俺もヤキが回ったか…」
 苦虫を噛んだ顔をしてアメリー君が言う。
「どうして?」
「今は二人しかいないから言うが、俺はお前に負けたんだぞ。」
「わたしは、全然気にしていないけど?」
「慰めか、それとも脅迫か、一体どっちだ?」
「どうして勝手に白黒つけるの?わたしはお願いしに来たの。」
「はあ?」
 アメリー君はますます困惑の態になる。
「今日、泊めて。」
 わたしは勇気を振り絞ってそう言った。アメリー君は何を言われたか解らない
感じで暫く固まっていた。搾り出した言葉は何か上の空に聞こえた。
「泊めるって、誰を。」
「わたし。他に誰かいる?」
「……いないけどさ。」
 何が彼を後ろめたくするのだろう。純粋に興味のあることだ。
 一緒に喋る話題もなくアメリー君の家の玄関に向かう。アメリー君は時々
振り返りながらわたしの前を歩いている。その背中が何だか小さく見える。多分
原因はわたしなんだろうけど、勝手に気にしてる事まではどうにもできない。
 アメリー君のご両親は屈託なくわたしを受け入れてくれた。お世話になるの
だからとお手伝いを申し出たら、アメリー君のママは快くわたしをこき使って
くれた。最も、うちのママンに比べれば優しすぎるくらいだけど。
 食べ物が口に合うかどうかは別として、アメリー君の家の団欒も結構楽しい
ものだ。わたしはラスカちゃんとたちどころに仲良くなり、ご飯の後はずっと
一緒にいた。
 ラスカちゃんは甘え上手だ。わたしも妹がいたらこんな子がいいな…。遊んで
いるうちに、いつのまにかラスカちゃんはわたしが通された客間で寝てしまった。
わたしは手紙を書き終えると、ラスカちゃんの横に一緒になって眠る。
 そういえば、誰かの寝顔を眺めながら寝ることが、今までどれ位あっただろうか
と考えてみる。あまり思い出せない。でもそれはきっと、今までこんな事を考え
なかったからだ。
 夜を重ねる度、わたしの世界が広がってゆく。
     第5夜
 両の腕(かいな)をすり抜けて、無くしてしまうものがある。
 気付くのが無くしてからなのは、何かの皮肉なのだろう。

「兄さん、これ、…その…。」
 言いあぐねている私にホー兄さんは静かに近付き、わたしが両手で握り締めて
いる手紙を引き剥がし気味に受け取った。表書きも中身も確認せず、ホー兄さん
はわたしに言う。
「ママンにだろ?」
 図星だ。わたしが何を考えているかよく解っているらしい。ホー兄さんは静かに
笑うとポケットに手紙をしまい込んだ。
「アメリーの奴にヘンなことされてないか?」
「うん。とても親切だよ。」
 半分嘘だ。パツキン君は露骨に嫌な顔をしたし、アメリー君のパパが何を考えて
いるのか全くわからない。それでも部屋をあてがってくれたり、一緒の席で食事
をしてくれたりするのは感謝しなければならないだろう。
 ホー兄さんもその辺りは判っているのかもしれない。
「じゃあな。」
 と短く言うとやはり振り返りもせずに帰って行った。自分勝手だと思うけど、
せめて一度くらい振り返ってくれてもいいんじゃないかと思う。
 本当に…自分勝手だ。
 身勝手さを噛みしめながら教室に戻り、同じ足取りでアメリー君と学校を後に
する。昨日よりはだいぶましだった。二人の共通の話題はラスカちゃんの事だけ
だけど、それだけでも会話がある。ああ、誰かと話すと言うことはとても大切
なんだなと納得した。
 他の状況は大して変わらない。わたしとラスカちゃんはますます仲良くなり、
冗談交じりにアメリー君が嫉妬していた。それをラスカちゃんと二人でからかって
遊ぶ。夜が更けてラスカちゃんの部屋を出た時、一緒に出てきたアメリー君は
お兄ちゃんの顔だった。それがとても微笑ましい。彼にはこういう方が似合って
いると思う。
「なんだよ人をじろじろ見て。」
「別に。なんでもないよ。」
 ああ、確かに少々不躾だったかもしれない。なんだかおかしくなって私が笑うと、
アメリー君も釣られて笑顔になった。
「あした…」
「明日?何だよ。」
「別の子の所に、行くわ。」
「……そうか。」
 それから、何も言わずに別れた。ベッドに横になり、わたしは自分の部屋で
天井を眺める。昨日夜中に目を覚ました時に、見上げた天井がいつもと違うのに
びっくりしたのを思い出した。わたしは、こんな時に一人きりなのを実感する。
 次に目を覚ますのが夜明けなのを願って、瞼を閉じた。
     第6夜
 伝えたい言葉がある。伝えきれない思いがある。
 それでも言葉を重ねるのは、大事な大事なことなんだ。

 学校に来ると、わたしは始業前に無言でフランソワーズちゃんの腕を掴み、
女子トイレにつれ込んだ。わたしの剣幕と予想外の成り行きにフランソワーズ
ちゃんは動転している。
「な、なんなんですの朝っぱらから。不躾にも程があってよベトナさん!」
 内心の怯えを悟られないように気丈に振舞っているのが判る。それに対しては
素直に済まないなと思った。表に出さないけど…。
「あのね、お願いがあるの。」
「な…何かしら、事によっても考えてよろしいかとかとか思うわよ。」
 フランソワーズちゃんが、なんだかおかしい。
「今夜、泊めてくれないかな。」
「そんなことくら…て、何ですって?」
「あのね、泊めて欲しいの。今夜。」
 フランソワーズちゃんが固まった。鳩が豆鉄砲を食らうと言うのはこんな感じ
なのだろうか。機会があればフランソワーズちゃんに今何を考えているのか聞いて
みたいと思う。
 理由はともかく、フランソワーズちゃんもお泊まりのことは引き受けてくれた。
何だか自慢のカールがしおしおに見えたのは、単にわたしの気のせいだったの
だろうか?
 それにしても、わたしはここの所人を驚かせてばかりいる気がする。
 昼休みにいつものように校舎裏に行くと、ホー兄さんも当たり前のように現れた。
今まで気にしていなかったけど、一体どこにいたのだろう。最近誰かに好奇心が
沸くのを押さえられない。いいことなのか悪いことなのか、解らないけど。
 わたしの思案に関係なく、ホー兄さんは封のされていない手紙を差し出した。
 背筋に冷や汗が浮かぶ。間違いない。ママンの手紙だ。
 意味もなく緊張しながら封書を広げる。真っ白な便箋にたった一言しか書かれて
いないのはママンらしいなと思う。最も、それだけにわたしは何が言いたいのかを
図りかねた。
『好きにしなさい。』
 受け取った手紙にはそれだけしか書かれていなかったので、わたしは途方に
暮れてしまう。ママンは帰っていいと言っているのだろうか?それとも頭を下げて
も許さないと言っているのだろうか?
 ホー兄さんは一言も発しない。内容を見ていないのか知ってて黙っているのか
判らないけど、聞いたところで思うようにしろと言うだろう。うん、…試しに
聞いてみようかな。
「兄さんは手紙の内容知ってる?」
「大体ね。」
「わたし、どうすればいいんだろ?」
「ベトナの思うようにしたらいい。」
 ほら、ね。思わずわたしは笑みが零れる。おかしいな、笑うことじゃない気が
するんだけど?どうしたんだろ。
「それじゃあ。」
「うん、ありがとう兄さん。」
 ホー兄さんは軽く右手を上げたまま、振り返らずに帰って行った。ホー兄さん
らしいなと思う。わたしも踵を返して教室に向かう。もう、覚悟は決めていた。
それがどんな結果になろうと構わない。わたしは自分の決めたことに納得している
のだ。それが、一番大切なことだと思う。
 フランソワーズちゃんと一緒の帰り道、今まで関わりは薄かったけれど案外と
話が弾む。とは言っても一方的にフランソワーズちゃんが話して、わたしはそれに
返事をするだけなのだ。それでも段々フランソワーズちゃんが砕けた調子で話すのを
見ると、話していて楽しいのだろうと思う。
 フランソワーズちゃんの家はわたしには眩しい。日々の暮らしで憧れていた
ものが全てある気がした。わたしの表情に満足したように、フランソワーズちゃん
は得意そうに色々な所を案内してくれた。
 ニホンちゃんやアメリー君の家と少し違うのは、わたしが『お客さん』だった
事だ。手伝いは一切させてもらえず、始終フランソワーズちゃんだとか執事の人
だとかが近くにいた。どうもこの家の流儀に沿って行動しないといけないらしい。
わたしには何も言う権利はないから、それに従う事に異存はない。
 食事の後でお互いの家の事について話したのはとても楽しかった。わたしは自分
の知らない家の事を沢山聞けたし、フランソワーズちゃんもわたしの家の事情を
聞いて、色々と納得できたようだ。話しているうちにフランソワーズちゃんはベッド
で眠り込んでしまい、わたしは荷物をまとめるとソファに毛布を被って寝た。
 朝になって、フランソワーズちゃんはお客様にソファで寝かせた事を恥じ入り、
ついでにわたしをなじった。それが照れ隠しと言い訳だと解っていたので別に
腹も立たなかったけど。
 家の人に礼を言ってフランソワーズちゃんの家を後にする。今度はちゃんと
お泊りに来たいなと思った。
     朝の情景
 ツバメが飛び去る。雨が近い。
 雨が降ろうとも、いつか雲が切れれば晴れ間が覗く。そういうものだ。

「おはよー!」
 教室に入って元気よく挨拶。大切なことだ。
 少し周りの反応がぎこちないけど気にしない。何人かは明るく答えてくれる。
それだけで充分だ。自分の席に座り、教室を見回す。当たり前のようにニホン
ちゃんとタイワンちゃんが近付いてきた。
「だいじょうぶ?」
「だいじょうぶだよ。」
 短いやりとりでも、思っていることは十分に伝わり、わたしも伝えることが
出来る。なんだ、こんなに簡単なことだったんだ。それに気が付かない自分が
バカだなと思うけど、気が付いたことが嬉しくもある。
 他愛もないおしゃべりをしていると、アメリー君が入ってきた。
「おはよ。」
「…おはよう。」
「色々ありがとう。感謝してるよ。」
 目線をそらして応対していたアメリー君ははっとなって見返した。わたしは
それに微笑みで答えて立ち去る。何を考えて受け入れてくれたか、それは
どうでもいい。おかげでわたしは助けられたのだから。
 始業前になってフランソワーズちゃんがやって来た。
「あら、ベトナさんごきげんよう。」
「フランソワーズちゃんおはよう。迷惑かけてごめんなさい。」
「…別に、謝る必要はなくてよ。いわばあなたとは浅からぬ縁がありますもの。」
「ありがとう。でもそれだけで、わたしは感謝できるもの。」
 返した言葉にフランソワーズちゃんは絶句する。わたしの見方が間違っていな
ければ、それは照れているのだけど…実際はどうなのだろうか?

 ママンは家に帰ったときも相変わらずだった。そんなものだとわたしは思ったが、
後でこっそりとパパからママンのここ一週間の様子を聞けた。なんだかやっぱり
落ち着いていなかったらしい。
 パパは悪戯っぽく笑いながらそう言ってくれたけど、ママンが割り込んできた
ので慌てて自分の部屋に駆け込んだ。その時、ママンは確かに赤面していた。
それだけでわたしは充分に嬉しかった。
 でも…どうして嬉しかったんだろう?もし思い出す事があったら、もう一度
考えてみたい。わたしは机の灯りを消してベッドに潜り込む。
 朝は、いつ来るのだろう。明日は、今日よりも良い日なんだろうか。

 おやすみなさい……

  終 劇

解説 憂患工房のカイセツ 投稿日: 03/10/15 10:52 ID:4RrR1Ndg
解説・逃避・生々流転
※ 今回はベトナム難民のお話。むむ、彼女の話になるとやたら長くなるなウリは。謝(ry
閑話休題、ベトナム難民は主に華僑、知識人、一般庶民の順に構成が変わりながら発生していま
した。華僑は経済の実権を握っていた為、知識人は北の思想に外れた為、そして一般庶民は苦しい
生活に耐え切れずに脱出。といったところです。
 始めは政治的難民、段々と経済的難民に変化しています。日本は難民受け入れに非常に消極的
でした。もしここで無制限にベトナム難民の受け入れをしたら、周辺諸国からどっと流入が増える
ことは火を見るよりも明らか(あそことか)。人道上ひどいもんですが、日本国民の生活と安全を
守るのが政府の仕事ですから、ある意味当然の態度です。
 政府レベルはともかくとして、民間レベルでみれば日本行きに便宜を図った台湾の貨物船の話やら、
辿り着いた難民に優しく接した沖縄県民の話とかもありますから、国を挙げて反対していたわけ
じゃありません。
※ ベトナム難民の受け入れ先で、大口はアメリカ、フランスでした。アメリカは多分後ろめたさ
から。フランスは移民とネイティブの軋轢が少なめで比較的寛容ですが、十把一絡げに排斥すると
収拾のつかない大混乱になるのも大きな理由。宗主国はどこも大変だ。
※ 八方美人なベトナちゃんは近年のベトナムの全方位外交です。大国偏重では国が行き詰まる為
の方針転換が背景にあります。実際ソ連重用の外交をしていたら、ソ連崩壊と内政行き詰まりで
ビンゴの状態になってしまい、こりゃ狭く深くよりも広く浅くのほうがマシという結論に達した様で。
故に国際評価の改善の為にカンボジア撤退、ASEAN加盟、米中との国交正常化を行ったようです。
※ ソース一覧。
↓中央日報でも取り上げてました。
ttp://japanese.joins.com/html/2002/0819/20020819223304100.html
↓玄人向け、論文『ベトナム難民の発生原因』大阪外大のセンセイです。
ttp://homewww.osaka-gaidai.ac.jp/~goto/nanminhasseigenin.htm
↓国連難民高等弁務官(貞子のいたところ)べんきょうになるなー
ttp://www.unhcr.or.jp/
 ↓素人向け、上記機関作成のパンフ(PDF)挿絵が何故か久保キリコ
 ttp://www.unhcr.or.jp/info/pdf/nanmin_momdai.pdf

台湾・日本での難民遭遇ソースは、毎度おなじみ
近藤紘一/「サイゴンからきた妻と娘」から。

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