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第1914話 北極星 投稿日: 04/06/27 17:50 ID:cL+wP1mB
「地球町の浮浪児 〜〜あるいはキッチョム君14歳〜〜」



夜陰にまぎれて、その少年は左右に果てしなくつづく白壁の前に身を潜めました。四半張の生子
壁のうえに白塗りの漆喰壁、瓦屋根を置くその外壁は高さ七尺(約2.1m)。古新聞の束を踏台に
すれば楽に手が届きます。
瓦屋根を乗りこえ、少年はニホンの中庭に侵入しました。
目指すは勝手口。
少年は植込みに隠れながらじりじり移動しました。
さいきん裏門に鍵をかけるようになったものの、肝心の外壁が侵入者にまったく無力なのです。
嗤うべきはチョッパリの浅知恵でした。
初夏の午前2時、ニホンは夜の底に眠りをむさぼっています。昼間ほどでないにせよ蒸暑さでじっ
とり汗が湧いてきます。それがほとんど入浴しない彼の体臭を周囲に撒きちらしていることに
彼は気づきません。
跫音を忍ばせ、勝手口のドアノブをひねると、思わぬ抵抗が伝わってきました。なんと鍵がかかっ
ていたのです。
シッパル! ウリに飢え死にしろというのか!!
お門違いの憤怒が腹の底から燃えあがりました。彼の怒りはきわめて沸点が低く、ささいな齟齬
にたやすく激発しました。
ちくしょう。火でも放ってやろうか。
小心な自分にそんなことはできない、と自覚しつつありもしない火種を探していると、15L用の
ポリバケツが外に出されていることに気づきました。
今まで視界にはいっていたのに認識しなかったのです。蓋をとると内部は透明のゴミ袋に包まれ
た生ゴミでいっぱいでした。
彼は愛用のフォールディング・ナイフ(折畳み式ナイフ)を取りだしました。ゴミ捨て場で拾っ
たもので、ドロップ型のステンレスブレイドは刃長62mm、レッドウッド材のハンドルに『テポド
ン』という刻みがあります。
ゴミ袋を切り裂き、彼はニホンの夕食の残飯を引き出しました。
枝豆の莢、刺身のツマ、鰺の開きにほうれん草のお浸し、コシヒカリのご飯にヨーグルトのパッ
ク……。
ためらいなく彼は残飯にかぶりつきました。彼に誇りはありません。残飯を食わされるのは癪で
すが、この仕返しは数万倍にしてニホンに報復すればよいのです。
彼は心の『仕返し手帳』にこの屈辱を書きこみました――いつか来る勝利の日のため、地球町の
住人から受けた仕打ちを心に刻んでいるのです。
もっとも、あまりに記録することが多すぎて、最初のほうは自分でも忘れているくらいですが、
とにかくニホンに無数の貸しがあることだけは確かなのです。
ケーセッキ!! いまに見てろ……。
怒りに身を灼いているときだけこの現実を忘れることができます。怒りこそ慰安であり、救いで
した。
そのとき、
うるおおお〜〜〜〜〜〜〜、わんわんわんわんわんわんわん!!
夜闇をつんざいて、大型犬の吠える声が響きわたりました!
ニホンの一角に灯がともりました。「またあいつか!」という声が聞こえました。


「ニダ!?」
ゴミ袋から顔をあげ、彼は手近な外壁へ走りました。
遠方で何かがちらちらしています。ものの数秒でそれは明確な影をなし、若いポインター犬が彼
めがけて一直線に迫ってきました。
ニホンの番犬、イーグル号です。
彼は目を疑いました。普段は鎖でつながれているのに!
外壁にとりついた彼の尻にイーグルは深々と噛みつきました。
「アイゴーーーッ!」
悲鳴をあげて転落します。イーグルは彼の腕に噛みついて散々振りまわしました。彼は喉をかば
うだけで手一杯でした。
「イーグル! もういい。放してやれ」
歯切れのいい命令が聞こえ、イーグルはすばやく彼から離れました。
懐中電灯のライトが、壁際に倒れた彼を照らしました。――この暑いのにありったけの衣類を着
込み、泥だらけのスニーカーが浮浪者丸出しです。
栄養失調の身体はがりがりで、伸び放題の髪のあいだから爛々たる眼が光り、この地球町の浮浪
児は痩せこけた野良犬を思わせるのでした。
「キッチョム、うちの台所を荒らすのはやめろといっただろうが。……」
パジャマ姿のウヨ君が呆れ声を出しました。イーグルの吠えるのを聞いて真っ先に飛びおきたの
です。
「バレなきゃ何をやってもいいと考えるのがお前の悪い癖だ。そういう人間はどんどん孤立する
んだぞ」
「…………」
「だいたい金がないなら真面目に働け。泥棒など恥知らずのすることだ」
「…………」
キッチョム君は沈黙したままです。すわった眼差しで地面を凝視していました。
「今回はべつに被害もないしこれで勘弁してやるが、二度と不法侵入などするんじゃないぞ。と
ころで怪我は大丈夫か?」
「う…………」
「うん?」
「うっっっしゃいニダーーーーーーーッ!!」
いきなりキッチョム君は怒号しました。それは囁くような低声から始まり、しだいに調子を跳ね
上げ、最後は甲高い絶叫で相手の鼓膜を乱打する堂に入った恫喝でした。
「うわっ」
「ウリが何をしたニダ。お前達に何をやったというニダ。いっつもいっつもウリを見下しやがっ
て心底ムカつくニダーーー! お前なんかにウリの気持ちはわからんハセヨ!」
「何をしたって……泥棒さ」
しょうもない逆ギレにウヨ君は辟易しました。
「ウッシャーーーイ!! ウリはキレたニダ!!」
キッチョム君はテポドンナイフを抜きました。刃をちらつかせてもウヨ君が怯えないのでますま
す頭に血が昇り、うおお、と叫んで突撃しました。
「まったく……そんなボロナイフでオレと戦う気か」
ウヨ君はげっそりしながら、足元の玉砂利から小石を拾いました。
ぱん!
キッチョム君の眉間に飛礫(つぶて)が命中しました。
軽く弾かれた程度ですが、正確な軌道で放たれた飛礫はキッチョム君の気勢を削ぎ、彼はたたら
を踏みました。
そこに今度はふたつ同時に飛礫が飛来し、最初のものとは段違いの威力で少年の両脛を薙いだの
です。
「アイグォ!?」
まるで丸太で脚を払われたようでした。キッチョム君はたまらず倒れ、
がんっ!
と、鼻っ面を踏み石にぶつけました。
「アイゴ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ッ!!」
キッチョム君は顔と脛をおさえて転げ回りました。今日の彼はとことん不運でした。
「い、石を投げるとは卑怯ニダ! 正々堂々と勝負するニダ!」
「馬鹿者、印地(いんじ)打ちは立派な武芸だ。だいたいどっちが卑怯なんだ」
ウヨ君はうんざりして、吐き捨てました。
「丸腰相手に刃物を抜いておいて……。どうせキレてみせたのだって、オレが6つも年下だから
だろうが」
「うっさいわねえ。いったい何の騒ぎィ?」
ウヨ君の背後から、少女のハスキーボイスが聞こえてきました。


その少女は、ナイトキャップまで赤で統一したパジャマを着ていました。
顔だちはニホンちゃんによく似ていますが、強い度のはいったメガネをかけ、目がやや鋭角に
つり上がり、そして髪が赤みがかっていました。
「こんな夜中に大騒ぎしてさ。ウヨ、またアンタなの? 近所迷惑ってやつを考えなさいよね。
ん? なにこの汚いの」
アサヒちゃんはサンダルの爪先でキッチョム君を指しました。
「キッチョムさ。騒いでたのはこいつだよ」
「あらやだ、キッチョムちゃん? ちょっと見ないうちに荒んじゃってまあ。きっとウヨが悪
いのね」
「なんでオレのせいなんだ……」
「まあ! イーグルが野放しになってるわ!!」
アサヒちゃんはわざとらしい叫びをあげました。
「その馬鹿犬、ちゃんと鎖に繋いどかなきゃダメよ! きっと誰彼かまわず噛みついてまわる
にきまってるわ!」
「イーグルは馬鹿じゃない。よく訓練してあるからだれにも噛みつくものか。それに鎖に繋い
でたら番犬の意味をなさないだろうが」
「バッカらしい、この平和な地球町で誰が犯罪を犯すというの? ご近所を疑うなんて世間体
ってものを考えなさいよ! まったく過剰反応して恥ずかしいわ」
「あー、泥棒ならいるんだが。お前の足元に」
「キッチョムちゃんが?」
「そうだよ。この状況をどう解釈してるんだ?」
「きっと何かの間違いよ。……ほらキッチョムちゃん、立てる? あたしが薬をつけたげる。
乱暴者のウヨにいじめられて可哀想ねー」
「えーい、ここは貸しにしてやるニダ! いつか百万倍にして返してやるから楽しみに待って
るハセヨ!!」
唾を吐きまくりながら、キッチョム君はアサヒちゃんにもたれて離れに連れていかれました。
「ふう……」
ウヨ君は深いため息をつきました。あの従姉と言葉は通じるのに、なぜ意思を疎通できないの
でしょうか。
それよりなにより……。
ウヨ君は我が家を振り返りました。
これだけの大騒動にかかわらず、なんと姉も両親もいまだに眠りこけているのです。
今夜のキッチョム君の侵入にしても、ウヨ君が勝手口の鍵をかけ、すばやくイーグルを解放し
ていなければ被害が甚大になり、あっさり逃げられていたに違いないのです。
ウヨ君はどっと疲れ、その場にへたりこみました。……キッチョム君と戦ったより心根にこた
える疲れでした。
クーン。
イーグルがウヨ君の頬をなめました。
「ああイーグル、お前は頼りになるな」
しみじみとウヨ君は愛犬の頭をなでたのであります。



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