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第1937話 無銘仁 ◆uXEheIeILY 投稿日: 04/07/21 10:03 ID:4MJN2ilh
 「ニツテイさん 1」

 親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしてゐる。
まだ年端も行かぬ時分、ひどく遠国のユーロから来たとか云ふ
無頼漢と喧嘩して、大怪我を負つたことがある。
おやじが眼の色を変へて怒るものだから、
ユーロだらうが如雨露だらうが、おれの知つたことぢやない。
撲られたから撲つただけですと答へた。
大僧を二三人もつらまへて無茶苦茶に張り倒してやつたから、
温良篤厚の士が見れば気狂の類と見えるんだらう。
おれは脳が悪るいから、事実気狂に相違ない。

 亜米利(アメリ)家の大将と名乗る唐人が来た時もさうだ。
六尺はあらうかと云ふ体躯で乗り込むものだから、
おやじは、やあなたのおつしやる通りでございますと云ふ。
聞けば唐人は法外に強者の権利を求めたらしい。
箆棒め、何でもかんでもおつしやる通りなんて奇絶が、
どこの国にあるもんか。大体おやじは胆力がない。
何でも他人様の云ふ通り極めるなら、二度と口をきかぬがいい。
さう云つてやつたら重禁錮同様な憂目に逢はされた。
あんまり腹が立つたから、
おやじの横つ面を張つてやつたら大変叱られた。
 この外いたずらは大分やつた。大雨の日に友達が、
いくら水泳ができても今日は泳げまいと云ふので、
何だ大水ぐらいこの通りだと泳いでゐるうち流されて、
例の亜米利に助けられたこともある。庭を北西へ十数歩行くと池が
あつて、その北側は露西(ロシ)屋と云ふ大店の庭続きだつた。
そこの倅がうちの領分へ入るものだからどやしてやつたら、
露西屋の爺さんが出て来ておれのはうが捕まつたこともある。
その晩母が詫びに来てどうにか助かつた。
今から考へると馬鹿馬鹿しい無暗なことをしたものだ。

 おやじは初めこそユーロの奴等を歓迎したが、どうしたものか
そのうち野卑だの不埒だのと難癖をつけて排斥しだした。
それなら初手から排斥すればよからう。
さう、かうするうちおやじが死んでしまつた。相続した兄は、
おやじにならつて亜米利や露西屋と断然戦ふつもりらしい。
奴等と喧嘩したおれは、憚りながらその強さを知つてゐる、
難儀に相違ないからやめておけと云つたら、おやじの遺言だからと
やに理窟を云ふ。到底智慧比べで勝てる相手ではない。
おやじはおれを見る度にこいつはどうせ碌なものにならない、
親不孝だと云つたが、なるほど兄に容喙する不孝者かも知れぬ。
と云つて自惚がもとで零落し、首を縊つちや先祖へ済まない。
 遺言たどういうことだといきなり怒鳴りつけたら肝癪を起こして
撲つてきたから、打ちのめしてやつた。兄は無法だと云つたが、
出鱈目を云ふくらいなら無法でたくさんだ。なるほど世間に
喧嘩は絶えない訳だ。とどの詰りは腕力だ。
すると兄は、家に籠つて出て来ない隣の朝鮮を屈伏して
子分にすればいい、などと勝手な熱を吹く。
喧嘩を避けるために喧嘩を吹き懸けるものだとは初めて知つた。
廻りくどい事を云はずとも、喧嘩がしたいと云へばいいことだ。
そこへ行くとおれは正直なものだ。
まだ理窟をぬかす兄を散々に擲き据ゑてやつた。

 ある日の午後、弟が憤然と馳け込んで来て、
英吉利(イギリ)氏と云ふユーロの紳士と庭を散策してゐたら、
不注意で池へ突き落とされたが英吉利は謝罪もせぬ。
あんな奸物と友誼を結ぶ道理があらうか、としきりに怒る。
奸物でも力があるからには即座に喧嘩ともいくまい、
よしんば英吉利の卑劣をあばいたとしても向うでは逃道を
拵へてやがる、弁口で心を動かすがよからうと云ふと、
兄さんあんな唐変木に随分甘いぢやありませんかと云ふ。
おれの何が甘いものか。おれが甘いなら英吉利の野郎に無法を
許したおやじは砂糖に餡子を塗りたくつたより大甘だ。(続く)

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