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第2189話 無銘仁 ◆uXEheIeILY 投稿日: 05/03/14 15:18:27 ID:+QMLxPsn
 「枢軸探偵社依頼壱〜上〜」

 来訪者を告げる呼び鈴の音が、狭苦しい事務所に響き渡った。
予定の時刻には五分早い。私は席を立ち、久しぶりの客を迎え入れた。
「枢軸探偵社の伊田利雄と申します。どうぞよろしく」
「どうも、初めまして。昨日お電話申し上げた朝日奈です」
茶褐色の背広に身を包んだ壮年の男が、遠慮がちに頭を下げた。
差し出した名刺には、「国立地球大学文学部教授 朝日奈佐吉」とあった。
朝日奈氏から電話をもらったのは、昨晩のことだった。
初恋の人を探してほしい――珍しくもない依頼だ。
仕事に飢えていたところだったので、二つ返事で請け合った。
この手の依頼なら、よほど難しくてもせいぜい半月で片付くだろう。
 散らかり放題になっている自分の机を避け、朝日奈氏を応接室に通した。
「お名前は仁保褄子さん、お年は先生とご一緒ですね。
三十年前に引っ越すと手紙が来てから、連絡が取れなくなったと」
「はい。今や手がかりは、この写真と手紙だけなのです」
「なぜ、三十年も経ってから逢いたくなったのですか」
「私ももう年ですから、死ぬ前に一目見ておきたいと思いまして」
心なしか朝日奈氏は焦燥感に駆られているようだった。
口調が安定しないし、顔も少し青ざめているように見える。
だいいち写真を持つ手が小刻みに震えている。私は嫌な予感がした。
稀に単なる人探しを装って、厄介な事件を持ち込む客がいるのだ。
「先生、失礼ですが、被調査者の情報はなるべく隠さずに教えてください。
どうしても言いにくいことは仕方ないですが、解決が遅れることもあります。
それに、私どもにも守秘義務というものがありますから」
朝日奈氏は隠してなどいないと強調したが、私の疑念は消えなかった。
 所長室は、今日も寸分の隙もなく整頓されていた。
探偵事務所にありがちな散乱した資料も、あふれんばかりの吸殻もない。
ここまでくると清潔では事足りず、潔癖という語が脳裡をよぎる。
私は所長であり親友でもある獨島逸朗に、朝日奈氏の様子を話した。
「そうか。それで、依頼は受理したのか」
「とりあえず見積もり書は渡しておいたよ。
なんか焦ってるみたいだし、明日には契約してくれるんじゃないのかな」
私の言葉を聞いて、獨島の眉がコンマ数ミリ動いたように感じた。
あの刺すようなまなざしは眼鏡の反射光に隠れている。
「僕たちは悪徳業者ではないと、何度言えば理解するのだね。
犯罪や差別の危険がある依頼は、いくら積まれようと受けられぬ」
「わかってるさ。ボクなりに調べて、問題があれば途中でも断るよ」
私が帰り支度を始めてもまだ、獨島は朝日奈氏の名刺に見入っていた。
 私は気持ちを切り替えることにした。今までも、危ない依頼はあった。
どうにかなるさ、などというのはおよそ探偵らしくない考えではあるが。
とりあえず帰りの日課を果たせば気分が紛れるだろう。
「ねえさくら君、表通りに知り合いがやってるいい店があるんだけど、
どうだい、一緒にピッツァとマカロニサラダでも」
「またですか……あの、やっぱりわたしはそういうのは……」
日ノ本さくら君は枢軸探偵社の紅一点だ。
事務所の前で行き倒れているところを拾われ、秘書として働いている。
過去を語ろうとしないあたり、どことなく獨島と似ている気がする。
私は生真面目で潔癖なさくら君に好意を寄せているのだが――。
「うちの社員ってさ、ボクとキミだけじゃない。
チームワークってすっごく大切なことだと思うんだよね」
「いいです、もう帰りますので、失礼します」
さくら君はきびすを返すと、さっさと事務所を出て行ってしまった。
「今日もキツいねえ」
静かになった事務所で私は肩をすくめてみせた。
 翌朝、事務所で待っていると、朝日奈氏が契約にやってきた。
「こちらが契約書です。疑問点は遠慮なくお尋ねください」
「見つけられなかったら、本当に成功報酬はいらないのですね」
「ええ。いただいた手付金で経費は十分まかなえますから」
そのとき、さくら君が趣味のメイド服姿でお茶を運んできてくれた。
少々面食らう朝日奈氏に、さくら君が質問をした。
「あの、朝日奈先生の地球大学って、超名門校ですわよね」
「こらさくら君。仕事中に関係ない話をするんじゃない」
「ごめんなさい。先生の『近代マル教文学史』を拝見しましたもので……」
「ほう。あれは私の著書の中でも入手困難な部類に入るが」
朝日奈氏は喜びつつも、まだ神経を尖らせているようだった。
さて、依頼人を疑ってばかりいるわけにもいくまい。
ひとまず朝日奈氏を信用して、「初恋の人」仁保褄子を探すとしよう。
 私は精密地図で住所を確認し、電車を乗り継いで現地へ向かった。
絵に描いたような郊外の住宅地が、一面に広がっていた。
私は付近の住宅を訪ね回り、それとなく褄子の話をしてみたのだが、
誰一人知る者はなかった。三十年前のことだ、無理もない。
陽も傾いて今日は無駄足だったかと諦めかけたころ、
近所の煙草屋で店番をしていた老婆から重要な情報が得られた。
「この子はね、都会へ出て行くといって随分昔にうちに挨拶に来てね。
それっきりだよ。あたしは都会なんて怖くて行けないねえ」
「本当にあの家に住んでいたんですね」
「ええ、ええ。間違いないよ。日用品を買いによく来てくれたからね」
私は老婆に根掘り葉掘り聞いてみたが、どこへ引っ越したかまでは
わからないということだった。それにしても、事実褄子がここに
住んでいたのなら、住人たちが判で押したように知らないというのは
いったい全体どういうわけなのだろう。
私は狐につままれたような思いで帰途についた。(続く)

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