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第2313話 ab-pro 投稿日: 2005/08/09(火) 22:38:02 ID:+tWW4wsf
 その刻。
 彼女。いや、彼女や時には彼は、世界のありとあらゆる場所で、運命の歯車と
して動き続けていた。
 独り独りの彼女や彼たちは、もちろん世界の運命なんて実感した事もないだろ
う。
 しかし、アマゾンの蝶の羽ばたきが、数時間後に北京で大雨を降らせるように、
彼女や彼は、確実に世界の運命を前進させていた。
 今日は、そんな彼女や彼のたちのお話を一つ・・・・

 ドイツ家の一室。
 KWIとプレートが掛かった研究室の中では、ゲルマッハ君が沈痛な面持ちで
同僚の女性と向かい合っていました。
 「このままでは危険だ、紫苑。ついにナッチ社長がハプスブルグ社を併合した。
 いつ君の身に危険が及ぶか分からない」
 長い間、この研究室で仕事をともにしてきた二人。
 しかし、紫苑一族の社員に対して差別を剥き出しに行い始めたドイツ社のナッ
チ社長が、ハプスブルグ社を合併した事で、これまでパプスブルグ社からの出向
社員ということで、ナッチ社の規則から逃れて、ドイツ社のKWI研究室で研究
を続けてきた紫苑にも、その差別が襲いかかろうとしていたのでした。
 「本当に残念。・・もう少しで原子の謎を解き明かせそうなのに・・・」
 そう言って肩を落とす紫苑ちゃん。
 彼等の研究は原子の研究。原子核に中性子をぶつけて、もし中性子がその原子
核と結合してしまったら、どんな原子が誕生するのか。
 そして、自然界でもっとも重いウランに中性子をぶつけた場合、自然界には存
在しない超ウラン元素が誕生するのではないのか?
 マカロニーノの研究によって、その存在が仮定されていた超ウラン元素を探し
求めていた二人にとって、ちょうど研究が佳境にさしかかった時の、この凶報で
す。

 「デンマーの君の叔父さんに、新しい職を探してもらった。この狂気が過ぎ去
るまで、暫くノーベルさん家に逃げ延びて欲しい」
 そう言ってうつむく事しかできないゲルマッハ君に、紫苑ちゃんは健気にも微
笑みながら握手を求めました。
 「ありがとう、ゲルマッハ。またいつか会える事を」
 「・・またいつか会おう、紫苑」
 
 こうして紫苑の去ったKWI研究室で、一人研究を続けるゲルマッハ君。
 二人で研究に打ち込んだ日々を懐かしく思いながら、今までの研究の成果をな
んとかして打ち立てようと、努力を重ねていたある日、とうとうその自然現象は
ゲルマッハ君の目の前に姿を現したのです!

「バリウム?」
 超ウラン元素の生成を目指して、ウランに中性子をぶつける実験を繰り返して
いた時、実験の後にウラン原子を観察してみると、そこにはどういう訳かバリウ
ム元素が存在していたのでした。
 「どういう事だ?
 ウランの元素番号は92。バリュウムは56。中性子衝突実験でウランより軽
い元素が出来るはずがないのに!?」
 更に実験を続けても、また同じ結果を生み出すウラン。
 実験誤差か?と半信半疑だったゲルマッハ君も、やがて今までの物理学の常識
を覆す現象を目の前にして、次第に鼓動が大きくなるのを押さえる事が出来なく
なってきました。

 「一体どういう理由でこんな現象が起こるんだ?まったく理由が分からない。
 ・・・ああ、こんな時に紫苑がいてくれたら!」
 
 その自分自身のつぶやきに思い立ち、慌ててこの実験の結果を手紙にしたため
ると、ノーベルさんの家にいる紫苑ちゃんに送りつけたのでした。きっと彼女な
らこの現象の理論を説き明かしてくれるという、確証が彼にはあったのです。

 しかし、なかなか紫苑ちゃんからの返事は届きません。
 じれる気持ちを抑えながらも更に実験を続けるゲルマッハ君。
 それもそのはずです。この現象を論文を世界で一番に公表した人物こそが、歴
史に名を残すのです。もし、この時、世界で誰かが同じ結果を発見し、彼より1
秒でも早く公表してしまったら・・・

 なんとか紫苑ちゃんからの返事を得て、それを持ってこの世紀の発見を知らせ
る論文に、紫苑の名前を入れたいゲルマッハ君。
 でも、これ以上待つ事は出来ませんでした。
 はやる気持ちを抑えながら、実験結果だけで論文にまとめ、出版社に提出する
ことにしたのです。
 ですが、どうしてもこの現象の理論が彼には分からず、論文を投函した後に後
悔し始めるゲルマッハ君。
 もし、この現象が何かの間違いであれば、彼の科学者としての人生は半分終わ
ってしまった様なものだからです。 

 そして。
 待ちに待った紫苑ちゃんからの返事が届いたのは、その直後の事でした。
 そこには、こんな文面が書きつづってありました。
 「おめでとう、ゲルマッハ。
 確かに今までの常識を覆す結果だけど、それでもウラン原子核が分裂する時に
陽子質量の五分の一ほどの質量がエネルギーとして放出されれば、物理的にこの
現象は説明できると考えます。
 貴方は本当に良くやったわ!」
 
 まるで自分の事のように喜びを表した紫苑の手紙に、思わず涙ぐむゲルマッハ
君。
 結局、最初の論文に紫苑の名前は載せる事が出来なかったものの、ナッチ社長
によって引き裂かれた二人によって、この現象は地球町にセンセーショナルなニ
ュースとして知らしめられたのでした。

 ・・・・無論、運命の歯車が大きく動き始めた事を、まだこの時はまだほとん
どの人が気付いていませんでした。
                                 end

 八月九日という事で。
 時間軸が過去ですが、キャラの配役はこれでご勘弁を。
 世界で初めて核分裂現象を発見した、ゲルマッハ君=オットー・ハーンと紫苑
=リーゼ・マイトナーのお話です。
 1938年12月に、核分裂現象はドイツのカイザー・ウェルヘルム研究所で発見さ
れましたが、そのいきさつは大まかには本文の通り(ああ、シュタラスマンさん、
出番を作ってあげられなくてごめんなさい)。
 後にノーベル賞を受賞するハーン博士は、この後、ハイゼンベルグ博士ととも
にドイツの核兵器開発責任者になりますが、マイトナー博士はマンハッタン計画
への参加要請を拒否しています。
 論文発表に関しては、実は別にもう一つの物語があるのですが、それはまた別
に機会があれば。

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