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第32話 有閑工房 投稿日: 2003/11/18(火) 14:06 ID:4XNZGels
『The Division Bell』
 
 子供の頃こいつの家をボートの上から眺めていたのを思い出す。近付いたら悪い病気が
移ると言われ、本気で信じていた。悪い病気はなかったが、関わると碌な事にならない
のは大人になってから知った。残念なことに気づくのが遅かったようだ。
「ご主人はいるかい。」
「失礼ですが、お約束はされていますか。」
「してないな。」
「それではお引き取りください。ご主人様はお約束のないかたとはお会いになられません。」
「じゃあ今ここで申し込もうかな。なんなら勝手に行かせてもらっても構わないが。」
 忠実な門番は眉一つ動かさずに守衛小屋にとって返すと受話器を取った。それから二言
三言話すとやはり能面面で出てくる。
「ご主人様が会ってみたいと仰っています。」
「ありがとよ。」
 抑揚のない声が関わるだけ無駄だと教えてくれたので、俺も親交を深める努力を放棄
することにした。
 嫌味ったらしいほど整然とした屋敷を案内される。辿り着いた部屋は色も何もない
真っ白なところだ。そこはイン堂の執務室のようだ。そう言えばこいつのような奴をここ
ではマハラジャと呼ぶんだった。
「相変わらず手の込んだ事をする。お前は懲りるということを知らないようだな。」
「何の話をしているか解らないが、座ったらどうだい?椅子の座り方くらいは知っている
だろう。」
 確かに言った通りだ。素直に従うことにした。
「さて、用件を聞こうか。こうやって君と話すのも何かの運命だろう。」
「少し考えればこうなるのも当たり前な気もするがね。」
「ほう、どういう意味だろうか?」
「お前もチュウゴと同類だよ。物分かりのいい面して近付く奴は碌な奴がいない。」
「ふむ、その点はチュウゴより私の方が多少判り難いかもしれないな。煙草吸うかい。」
 差し出した煙草を無視して自分のポケットからクシャクシャの煙草を取り出して火を
つけた。イン堂は眉一つ動かさない。
「口に入るものは警戒する主義でね。」
「そんなに警戒しなくてもいい、死に至る量は弁えているつもりだ。」
 有難い話だった。何となく二人で笑う。昔はこんな笑い方を知らなかった。嫌悪すらして
いた気がする。今はそうじゃない。ただ、それだけだ。
「お前は何が望みだ。」
「望み。不思議な言葉だ。希望や渇望とも言えるだろうか、そんな解釈は大事ではないだ
ろうが。ただ君の推理とそう違ってはいない気がするな。」
「だとしたら嬉しいね。俺が興味があるのは誰がエリザベスに唆したかだ。言った奴は
わかっている。お前だろ。」
「当事者にそんなあけすけな質問をするのはどうかと思うよ。私は君の言い方だと当事者
らしいじゃないか。」
「何、調べはついているが何事にも交渉の余地はあるということさ。」
「賢明だな。実に。それが長生きする為のコツというものだよ。」
「別に自分の寿命に興味はないがね、依頼主の願いは聞いてやらんと次の仕事に差し支える
のさ。これでも人気商売なんでね。」
「その点に同情するよ。」
 こういう商売はこちらがいくら友好的でも相手は必要以上に嫌悪と憎悪を注いでくれる。
 それが俺の飯の種になるから世の中は上手く出来ている。自分の身以外は守る必要がない
というのは気楽なものだ。
「同情ついでに取引といこうか。いくらチュウゴの野郎と手を組んでいても、どうせ全然
信用していないんだろ?」
「否定はしないな。」
「ミャンとタイランを言いなりにするなんざお前には朝飯前だと思うが、なぜ一々チュウゴ
と手を組む必要があったんだ、さっさとぶちのめしとけばいいのに。そもそもチュウゴと
組む事のメリットがいまいち判らない。リズとチュウゴの諍いを眺めて適当にリズに助け舟
を出せば欲しい物は手に入っただろう。」
「そうだな。」
 全く胸糞が悪い。背中を向けていたら俺は間違いなくぶち込んでいただろう。折角こっちが
親身に助言をしているのだが、イン堂にはどうでもいい事の様だった。それは全く変わらない
態度がそう言っている。
「チュウゴに脅されたベトナは、タイランとカンボジアに脅しをかけて協力させた。しかし
ベトナ以外はお前さんの手駒のはずだ。」
「人聞きが悪いじゃないか。彼らは私の兄弟さ。」
「俺は言葉が便利だとこういう時つくづく思う。つまり戯言ということだ。そうじゃない、
俺が聞いたいのはお前さんの狙いだ。」
「いやなに、飼い犬に手を噛まれただけの話だ。そう深刻になるほどじゃないよ。心配かけて
すまないね。」
「礼には及ばないよ。」
「そうかい、ところで煙草は本当にいらないのかい?」
 先刻からイン堂の態度に全く変化はない。よほど面の皮が厚いのか、それとも元からこういう
性格なのか判らない。いや、多分両方か。どちらにせよ苛立ってくるのに変わりはない。
「まだ吸い終っていないからいらないよ。それより本題に入ろうか。リズの商売をチュウゴが
横取りしかかっているのは知っているな?」
「知ってるとも。」
「物覚えが良くて助かる。チュウゴはカンコに金の管理をやらせてパキスとミャンに運び屋を
やらせている。当然3人ともチュウゴに弱みを握られている。その辺は察しがつくかな?」
「知らなかったが推測はしていたよ。ところでその脅しのネタとやらを教えては貰えないのかな?」
「犬の糞を舐めたら教えてやるよ。それから質問は俺がする。お前は答えるだけでいい。」
「いいだろう。」
「さてそこでだ、お前にぜひともやって貰いたい事がある。今すぐミャンの所に使用人を置いて
チュウゴの送り込む物を片っ端から焼き捨てて欲しい。タイランにはもう話をつけてあるから、
その内流れ込む量も減るだろう。そうなると自動的にベトナが寝返る。あの女狐はそういうのに
目敏いからな。」
「かつての旧友を悪く言うものじゃないよ。それにしても、出来れば私にも見返りが頂きたい
ものだが。」
「リズに話はつけた。といっても執事だがな。商品の運送は全面的にお前に任せて良いそうだ。
ついでと言っては何だが、EU地区でのチュウゴの利権を好きなだけやるとの事だ。まあ闇討ちに
遭わない程度に掻っ攫うといい。」
「それはどうも。ところでチュウゴはそれじゃ収まらんだろう?私はせっかく築いた友好を
棄てたくはない。」
「もう一度だけ言う、逆質問はするな。まあ、仲良しでいたいならそれに関しては妙案がある。」
「期待せずに聞こうか。」
「ネパールのところにいるダライラマの爺を差し出せばいい。チュウゴがあの爺をどうするか
考えなくても解るが、どう転んでも奴をゆするネタになってくれるだろうさ。せいぜい派手に
送り出してやればいい。どうせお前には害にも薬にもならん爺だろう。」
「人の手駒を勝手に活用しないで貰いたいね。」
「お前は人の忠告を無視しないほうが長生きできると思うがな?」
 イン堂は俺の質問に答えず悠然と構えている。どうも俺の忠告から何からなかった事にして
しまっているらしい。しかし取り敢えず交渉成立のようだった。俺のここでの仕事は確かに
終わったが、イン堂は俺の一番嫌いな置き土産を自宅に届けてくれていた。
 相変わらずにこやかに笑っているイン堂が指を鳴らすと、物陰から足音もなく男が近付いて
くる。手には入り口で預けさせられた拳銃やコートがある。つまり帰れと言うことだろう。
 立ち上がって荷物を受け取った時、一瞬イン堂に一発お見舞いしてやろうかとも思ったが、
恐らくそうなる前に俺のほうが蜂の巣になるだろう。三人しかいないはずなのに、ここは人の
気配がありすぎた。
「それではまた会おう。お互いに有意義な人生を送ろうじゃないか。」
「それは無理だな。俺にとって有意義ならば、お前は呼吸をしていない。」
 イン堂は相変わらず聞き流してにこやかに手を振ってくれた。俺も笑い返して親指を下に突き
出すとドアに向かった。
   *
 人気のない門の脇をすり抜けると、リズの家の玄関に立つ。呼び鈴を鳴らすと執事が出て
きて、恭しく応対してくれる。世の中に何が無駄かと言えば、年増女の厚化粧と執事の応対
だろう。この家には両方ともある。
「やあリズ、ワイアットアープのご到着だよ。」
 人に会うわけでもなくきれいに着飾ったリズがいる。中身が不味くなるとやたらと着飾る
のは別に街娼に限ったことじゃない。
「あら、私の前に顔を出すなんて、首尾は上々のようね。」
「見ての通り生傷が増えるくらい順調だった。」
「そう。」
 リズは極上の作り笑顔で俺を慰めてくれた。有難くて目頭が熱くなりそうだ。あと5000
ドルばかり上積みしてくれたらそれは確実だろう。
 俺は飾り棚から勝手に高そうなワインを取り出すと、コルクを抜いてラッパ飲みをした。
リズは嫌な顔をするが、目的の半分はその顔を見るためだ。この位しなければ腹の虫が治まら
ない。
「で、チュウゴの方はどうなったの?」
「諦めてくれるそうだ。」
「そう。」
 明らかに不機嫌な口調でリズは答えた。詳しい話を聞きたいのだろう。だが話す気はなかった。
「でも私はどうしてあいつが諦めたのか、そのネタを聞きたいんだけど?」
「残念だな、それは教えられない。」
「あら、依頼主に逆らうつもり?」
「まさか、俺は言った通りにしただけだ。ネタを掴めと言われたが、それを教えろなんて
リズは言わなかっただろ?」
 俺は子供に言い聞かすように優しく言った。リズは裏取引があったのを悟ったのだろう。
そうなれば俺が口を割らないのもお見通しだ。追加で金を貰えば俺も喜んで教えたのだが、
その辺はリズもお見通しだ。リズは無駄な努力を早々に放棄したが、報酬の方は残金が半額
まで減らされた。完全に足元を見られている。
 徒労感のほうが大きな金額だが、何はともあれこれで一息つける。気抜けして重くなった
体を引き摺り、俺は嫌味を半ダースばかりばら撒くとリズの家を後にした。
 他人事には違いないがリズの将来に心から同情したい。自分ではいつまでも一流どころの
名家のつもりなんだろうが、残念ながら実力が伴っていない。
 かつて格下呼ばわりして好き放題やっていた連中に、今では付け込まれて掻き回されている。
どこの諺だったか弱り目に祟り目とは良く言ったものだ。いつまでも認めず気がついた時には
取り返しのつかない事になる。
「次はお前の番かもな、リズ…」
 ハンドルに向かって呟きながら、俺はエンジンを回した。

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