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第31話 有閑工房 ◆aKOSQONw 投稿日: 2003/11/16(日) 17:59 ID:F9Fx/SnQ
『The Wall』File-2

   *
 目を覚ました時椅子に後ろ手に縛られ、口の中は鉄の味が充満していた。気持ち悪くてその場
に唾を吐く。緩慢にそんな事をしていると卓上ライトが正面から照らされて目を潰した。
「正義の味方も随分と不甲斐無いものアルな。」
 ああ、何て耳障りな声だろうか。えげつなさでは紫苑に劣るが、煩わしさではこいつに敵う
奴はいない。
「開店休業が長く続いてね。お前さんが大人しすぎなんだよ。それとも引退する気にでもなったか?
なんなら仕事を紹介してやっても良いが。」
「なに、心配には及ばないアル。」
 奴の顔に浮かぶ満面の笑みは、街中で笑っているマスコット人形みたいだ。貼り付けた笑顔
というのはこういうものかもしれない。
「何が言いたいかわかっているアルな。」
「さあね。」
 本当に解らなかったのでそう答えた。最も、解っていても返事は変わらないが。
「まあ、後々の事もあるから言って聞かせてやるアルよ。とっととこの件から身を引くヨロシ。
今まで生きているだけ有難く思って欲しいアル。」
「俺が生き残っているのはお前のおかげじゃないだろうよ。」
「ほう。」
「お前が嫌われ者だからだよ。」
 チュウゴが立ち上がる。正直者の俺の答えにご立腹らしい。残念な事だ。奴は俺の髪の毛を
掴むと無茶苦茶に引っ張り上げ、俺にこう言った。
「虚勢を張って、味方を減らすなんて愚か者のやることアルぞ。もう誰もお前なんかにしゃしゃり
出て欲しくはないアル。引け際を知らない役者は見苦しいだけアルぞ。」
 そのセンスのかけらもない脅し文句には俺のとっておきの返答があった。
「そんなに自分の事を悪く言うもんじゃない。」
 そう言った瞬間に記憶は無くなった。我ながら必要以上に口数が多い。
 目を覚ます場所がこの世でなくても良いと半ば本気で思ったが、俺は死神にも嫌われているらしい。
死んでいたらこの忌々しい痛みと言うやつともおさらばできるのだが。

 当たり前の事だが、気絶していた時間なんて解らなかった。生者の特権として体の痛みを感じる
ところを確認する。さっきより倍近く増えていた。
 ぼんやりと視界の中で人影が動いている。溜め息と独り言、電卓を叩く単調な音、ペンが紙の上
を這いまわる音。興味を誘われてその人影を確認する。
 俺の目の前でベトナは面倒くさそうに帳簿をつけていた。
「良い気分だろう。昔とは逆の立場だ。」
 自嘲気味に俺は言う。だがベトナはそれでいい気になるでもなく、当たり前のように答えた。
「迷惑よ。どちらかと言うと。」
「そんなに嫌うこともないだろ。俺たちは知らない仲でもない。」
 からかい半分の言葉にベトナは眉一つ動かさない。癪に障ることにこちらには見向きもしない。
 俺の気分など端から無視した風でベトナは呟く。
「紐、緩んでるでしょ?きつく縛ってなかったから。私は仕事に疲れてうたた寝するの。うっかり
鍵も開けたままにしててね。」
「憐れみまで受けるとは、俺が落ちぶれた証拠かな?」
「さあね。どうだろう。」
 相変わらずベトナはこちらを見向きもしない。幽霊にでも話しかけているそぶりだ。
「ただ言えるのはあなたたちの下らないショバ争いには係わり合いになりたくないだけ。」
「別にチュウゴのシマには興味ないがね。それよりも俺が逃げればお前は吊し上げられるだろう。」
「関係ないわよ。私はチュウゴからここにあなたを連れてくるように言われただけだもの。ちゃんと
言われたようにした。それ以上はする気もないだけ。」
 成る程。俺はここを逃げ出さないといけない。たとえ捨石にされたとしてもベトナはチュウゴ
の言う通りにしなければ生きていけない。ここで俺が消えても残っても、どちらにしろベトナは
碌な事にならないだろう。だが俺が逃げた方が生き残る確率は高いと踏んだのだ。一方的に巻き
込まれてしまえば、当事者同士をいがみ合わせた方が付け入る隙もあるというものだ。
 おれはベトナの慧眼に感謝しないといけないだろうが、そのつもりはない。もとよりベトナも
感謝して欲しくもないだろう。味方する腹を固めていたら、俺は今頃チュウゴの額に穴をあけて
いた。
「助かったよ。死にたくなったらいつでも声をかけてくれ。協力は惜しまない。」
「あら…」
 ベトナは初めて顔を上げる。冷たい笑顔の奥には痛烈な皮肉が漂う。
「一緒に死ぬなんていう甲斐性があったのね…」
 俺は無言で立ち去った。紐の中に剃刀を仕込むような女だ。皮肉を本気にするのに努力は必要
ないのだろう。

 通りに出て煙草に火をつける。一息吸うと何気なく空を見た。思った通り瞬く星は一つもない。

 ――夜の闇はどこにも平等にやってくる。

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