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第1639話
有閑工房
投稿日: 03/08/30 20:30 ID:X2xxKQpR
『買物天国』
夏の日差しの昼下がり、池の端のあぜ道を一人の少女が歩いています。赤いリボンの
ついた鍔広の白い帽子、薄い青に胸元に蓮の刺繍のついたアオザイの裾を翻し、何だ
かこの子の周りにはうだるような暑さが無いみたいな雰囲気です。ニホンちゃんはぼ
うっと南支那池の端で釣り糸を垂らしていましたが、それが誰だか解ると何の逡巡も
なく声をかけました。
「あ、ベトナちゃんだ。ベトナちゃーーーん!」
呼ばれた少女は立ち止まり、声のした方を振り返ります。そこには麦藁帽子に訳の
解らない漢字の四字熟語がが沢山書いてあるTシャツを着たニホンちゃんが勢い良く
手を振っていました。
「・・・ニホンちゃん?こんにちは。」
何となく改まってしまうベトナちゃん。普段の教室の中と何となく違う感じだか
らでしょうか?ニホンちゃんは思わず吹き出してしまいました。
「あはは、なんかおかしいの。」
「そうかな?」
笑っているニホンちゃんを不思議そうにベトナちゃんが見ています。
「そうだよお。―――ところでベトナちゃんどこに行くの?」
「わたし?お買物よ。ママンに言われて晩のおかず買いに行くの。」
「へーえ、凄いなあ、一人で行くんだ。私そんな事無いのになあ?あ、それじゃう
ちのスーパーにおいでよ、何でも揃ってて便利だよ。」
「ニホンちゃんの?・・・うーん、それじゃあ見に行くだけでもいい?」
「もっちろん!大歓迎だよ。それじゃ一緒にいこっ!」
そう言って心底嬉しそうにベトナちゃんの手を取り、ニホンちゃんは半ばベトナち
ゃんを引きずるような感じで連れて行きました。ベトナちゃん、何故だかちょっと
赤面しています。
*
「ここがスーパー『帯電原子』だよ。うちで一番人気あるの。」
そう言うニホンちゃんは何だか得意そうです。物陰一つない明るい店内、あちこち
にある綺麗な飾りと案内標識。ベトナちゃんはちょっと面食らって戸惑っているよ
うです。
「ここ、遊園地?」
「あははは、違うよお。ほら、商品がいっぱい並んでるでしょ?こうやって籠に欲
しいもの入れて、あそこのレジでお金払うの。」
「そう・・・」
「?どうする?買うの?」
買物カートをセットして、ニホンちゃんは他意もなく笑っています。
その素直さは好意に受け取れるのですが・・・自分の買物カゴからお財布を取り出
して、ベトナちゃんは中身を見ていました。が、少し困った顔をして言いました。
「・・・ごめんねニホンちゃん。今持ってるお金だと、多分全部買えないから・・・」
それでニホンちゃんはっとします。そうでした。普段見ているとぜんぜんそう思
えないのですが、ベトナちゃんの家はあまり裕福とは言えないのです。
「あ・・・・・・ごめん。私全然考えてなかった。うちってお店の商品の値段町で一番
高いんだよね。」
「ううん、気にしないでニホンちゃん。」
「あ、あ、それじゃあスーパー『ぐれーとぶりてん』は?あすこは安いよ、他に
も『西のともだち』とか、フランソワーズちゃんとこの『軽いけど古い』とか・・・」
自分の迂闊さを何とか挽回しようとするニホンちゃんをベトナちゃんは静かに押
しとどめると、確認するようにゆっくり言いました。
「そのスーパーって、全部値段決まってるの?」
「え・・・、ええっと、店が終わる前とか、バーゲンとかでは安くなるよ。」
「そう。それじゃあわたしが店の人と話して安くしたり量を増やしてもらえる?」
「うーん・・・お魚とかお肉ならできるかも・・・」
ベトナちゃんの質問の意味が少し解らずに、ニホンちゃんは答えました。
ベトナちゃんはというと、小首を傾げたまま何だか考え込んでいます。そのポ
ーズは『どうしたもんかなあ?どうしようかなあ?』と言っているみたいで、同
じ女の子ながら可愛いなと思わせるものでした。
「ねえニホンちゃん。お礼にわたしと一緒に買物付き合わない?」
「え?別に・・・いい・・・けど。」
ベトナちゃんは不敵な笑みと共に言いました。
「私が本当の『お買物』を見せてあげる。」
目の錯覚でしょうか?いつも物静かなベトナちゃんの背中から、めらめらと燃え
上がる炎が見えた気がしたのは・・・
*
さて、ニホンちゃんが辿り着いたのは『さいごん』と大書きされた看板と、その
下にある何だか薄暗い店のような所でした。
「ここは?どこ?」
ニホンちゃんには、その入口が時間に追いたくられた白兎が飛込んだ穴みたく見
えました。
「ここは『市場』よ。わたしやママンはいつもここで買物するの。」
怖気づいているニホンちゃんの手を取って、ベトナちゃんはずんずん奥へ進んで
いきます。
そこはニホンちゃんにとってまさに不思議の国。山積みされた野菜や果物、つい
さっき絶命したらしいお肉の山。まだ生きている鶏や犬猫。何だか猿もいた気が
する。しかもそこはペットショップには見えない事甚だしかった気がする。
しかも見慣れた『値札』が全く見当たらないのは一体なぜなんだろう?あ、そー
か、今から値段変わるんだ。きっとそうに違いない・・・
千々に乱れまくる思考の中で、ニホンちゃんの手を引っ張るベトナちゃんは、ハ
ンターよろしくその瞳は輝き、背中から何かゆらいでいるものが出ているように
も感じます。
『あああ、なんだかベトナちゃんが輝いてみえるよう・・・』
商品の山と、それらが混ぜ合わさった何ともいえない匂い。どうやって行き交っ
ているのか摩訶不思議な人波。店とお客の喧嘩みたいなやり取り。そういうもの
がニホンちゃんの五感を数瞬で麻痺させてしまい、悠々と前を行くベトナちゃん
を更に神々しく見せたのでした。
その神様が不意に立ち止まります。目線の先は魚屋みたいです。『みたい』と
いうのは、もはやニホンちゃんにはどこがなんの店か判らなくなってしまったか
らです。
「ど、どうしたの?」
立ち止まったベトナちゃんを見て、店の売り子の人がすかさずここの魚の素晴ら
しさを話しはじめます。ニホンちゃんは聞いているだけで納得しかかりましたが、
ベトナちゃんは何だか不満そうです。見るも珍妙な一匹の魚の目を指差し、これ
は目が濁っているからあんまり鮮度が良くないのじゃないかと言っています。
ニホンちゃんの買物辞典には店の人にそんな暴言を吐く事はタブーになっていま
すが、ここは違う世界のようです。店の人もムキになって抗弁し、新たな説明を
加え、そしてその魚をべた賞めしはじめます。それを半分しか聞いていない風の
ベトナちゃんはいかにもうんざりした感じで歩きだそうとしはじめました。店の
人は慌てて
「100ペリカでどう?」
と声をかけます。ベトナちゃんは立ち止まって、考えた風で振り向きながら、
「35ペリカ」
と短く言いました。
『さ、魚がタッタノ100ペリカですかあ・・・』
それでもニホンちゃんには充分安く思えたのですが、ベトナちゃんはその1/3
くらいだと言った気がします。いや、確かに言いました。店の人はそんな横暴な
値段はありえない。100ペリカだって生活できるぎりぎりの値段で、そんな値段
で商売したら飢え死にしてしまうといい、
「そんなら85ペリカだ!」
と自信満々に言い放ちました。
『え・・・さっき、100が限界って言った気がする・・・』
ニホンちゃんは耳を疑いましたが、確かにそう言ったようです。
「でもこれは40ペリカ位しか値段つけれないよ・・・」
ベトナちゃんも更に言い募ります。心なしか上げ幅が店の人の値下げより渋い
気もします。ベトナちゃんは先程の魚の目の件に加え、一部身が崩れている(ニ
ホンちゃんはどうしてそう目ざといのか解りかねましたが)だの、魚に打ってあ
る氷が少ないだの、他の店のよりも少し小ぶりだの、本当にそうなのかニホンち
ゃんには理解できないいちゃもんをつけ続けます。
それでもお互いの攻防は続き、50ペリカに至って、白熱の展開をしています。
ニホンちゃんは、勿論蚊帳の外。閑になったのでそこにいたネコと遊びはじめた
のですが、他の店から
「そのネコは私のものだが、大変に賢く買主にも従順だ。どうかね、6000ペリカ
で譲ろうじゃないか。」
という嘘まるわかりの話を持ち掛けられ、
「ネコいじめの好きな犬がうちには沢山いる。」
と言って断りました。最もそのひとは
「じゃあその犬の餌に2000ペリカでどうだ?」
と聞いてきて、さすがにうんざりした所でベトナちゃんのそばにいるのが一番無
難なのだと悟りました。
30分が経過し、ベトナちゃんは2回くらい他の店に行きかけ、そのたびに店の人
はわずかに値段を引き下げつつベトナちゃんを引き留めます。そしてようやく52
ペリカで手打ちとなり、ベトナちゃんはオーバーに思える謝意を表し、店の人は
装飾過剰で目が痛くなるような喜びと共に目当ての魚を渡しました。
「べ、ベトナちゃん・・・」
「なあに?」
「いつもこんなことしてるの?」
「そうよ。でも今日はニホンちゃんがいるから、少し手抜きしちゃったけど・・・」
「て・・・・・・手抜きれすかあ?」
「うん。こんなに高い値段だとママンに怒られるかもしれないな。」
「高いの?うちじゃあお店の人が最初に言った値段でも十分安いよ。」
何の気無しに言ったニホンちゃんの一言に、ベトナちゃんの肩がピクッとゆれます。
「・・・だめ。」
「え?」
さっきの神様が柔和だったベトナちゃんに再び降臨したかのように一瞬で雰囲気
が変わってしまいました。
「だめなの。それじゃあ本当のお買物じゃないの。」
「べ・・・ベトナ・・・ちゃん?」
「お買物はわたしとお店の人の知恵比べなの。」
「は・・・はあ・・・」
「一度でも妥協したら、お店の人から舐められて高いまま買わされちゃうのよ!」
「そうです・・・か。」
こんな力説するベトナちゃんをニホンちゃんは初めて見ます。
「そう!そうなの。だからお買物はわたしの全ての力を出し切るに相応しい仕
事なの!」
いつもの物静かで不敵なベトナちゃんとは、かなり違ってしまっているようです。
口調は一貫して落ち着いているのですが、その語気たるや電波全開の誰かさんよ
りも遥かに迫力と説得力があります。
そういえばベトナちゃん、目に付くものがあると、
「それ、いくらしたの?」
と、挨拶代わりに聞く事がよくあった気がします。あまり気に留めていませんで
したが、それは何がどのくらいするものなのか聞いてまわっていたんですね。確
かに値段が決まっているようには到底思えないこういう場所で買物をしていたら、
ニホンちゃんみたいに『値札があってナンボ』の買物をしているのと訳が違うよ
うです。
「さ、ニホンちゃん、次いこ・・・」
がしっ!という感じでベトナちゃんはニホンちゃんの二の腕を掴みます。
「つぎ?・・・次ってまだ行くの・・・?」
ニホンちゃんの心の内を読み取ったようにベトナちゃんはにっこり微笑むと、い
つもの調子で答えました。
「まだ、お魚しか買ってないもの。」
その日、『さいごん』市場では、女の子の悲鳴ともつかない叫び声がこだまし
たそうです。
「いやああああぁぁぁぁん!おうちかえるううぅぅぅぅーーーー。」
後日談
「あ、トル子ちゃんだ。」
「あらニホンちゃん。どこに行くの?」
「お家に帰るとこ。トル子ちゃんは?」
「『ばざーる』にお買物に行く所よ。ニホンちゃんもくる?」
「・・・」
トル子ちゃんにはニホンちゃんの額にタテジマの線が出てきた錯覚にとらわ
れました。どうやら怯えているようです。
「?どうしたの?」
「そこって・・・、商品に値札ついてる?」
「え?確かについてるのもあるけど、殆どないよ?」
「・・・・・・いい。」
「?」
「やめとく。おうち帰る。」
「うん、別に無理にじゃないし・・・て、ちょっとニホンちゃん?」
ニホンちゃんは一目散に逃げてしまったとさ。呆然と見送るトルコちゃんが一言。
「・・・・・・へんなの・・・・・・」
解説
有閑工房かいせつ
投稿日: 03/08/30 20:40 ID:X2xxKQpR
※元ネタは
「サイゴンから来た妻と娘」/近藤紘一より。
同じネタから二作品は卑怯技かもしれませんが、ご容赦くだされば幸いです。
この人で私ご飯3杯はいけますんで………
元ネタはありますがストーリーは完全創作です。
ベトナムは戦争の恨みで周辺諸国から暫く干されていたため、経済の立ち遅
れが響いています。それに加えどこぞの大国がばんばか花火ぶち込んだので
インフラは絶無。今は日仏企業の進出やニホンのODAなどで一息ついてい
るようです。
かのドイモイ路線は市場開放というか先祖帰り現象に近い気がします。未だ
小売店よりも市場が強いお国柄で、ベトナちゃんのような駆け引きは当たり
前にやられている事と思います。というか、市場での駆け引きはカンコ君の
所からトル子ちゃんの所まで当たり前のように行われ、買物時間も今の日本
人からすると学校朝礼と国会中継くらいの差があると思います。他の家の買
物事情も絡めてはみたいのですが、詰め込みすぎは長文になるので止めました。
誰か書いてくれる事キボン。とか言ってみる。
ラストの「おうちかえる」はカンコ君の「アイゴォ」をもじって遊んでみま
した。そういやカンコ出てないな・・・カンコすまん。
今回は会話中心の形式としたので、少々長いですが、多少読みやすくなった
のではと思います。ご意見、ご批判、ご感想お待ちします。
追記:前回の『彼方からの手紙』にて参考文献にある近藤紘一氏の著作名間
違えていました。
(誤)「ベトナム・・・」→(正)「サイゴン・・・」
反省しますが、謝罪はそれなり、賠償はケンチャナヨーです。
それではまた。
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