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第2227話
司馬遼々
投稿日: 2005/04/30(土) 14:39:26 ID:3/Yt6ep+
【碧空に想う】
空が高い。
日ノ本家で見た空に、ちょっと似ている。
白い雲がぷかぷかと浮き、どこか間抜けに見える。
もう、体は動かない。
どこもかしこもいかれてしまった。
お天道様はじりじりするが、満身創痍で横たわる地面は少しだけひんやりしている。
もう、長いこと横たわっているのに。
リクグンは、ポケットから煙草を取り出した。
マッチ箱は少し湿気ていたが、それでも火は着いた。
ふうっと紫煙を吹きだすと、何故か「ああ、負けたんだ」という実感がこみ上げてきた。
他に何を思うかと言えば、力が及ばなかったという後悔……は無い。
鍛えた自信はある。それでも及ばなかったのだから、後悔などは無い。
こうすれば良かったという後悔……もまだ無い。
そんなものは、孫の世代に任せてしまえばよい。
何も成し遂げられなかったという虚脱感だけがある。
日ノ本家は無事だろうか。非道いことをされてやしないだろうか。
父や母は達者だろうか。
兄弟達は、今も元気でいるだろうか。
子供たちは、飢えてやしないだろうか。
僕の愛した庭は、今も綺麗だろうか。
僕の植えた向日葵は、まっすぐ伸びているだろうか。
高く高く、伸びているだろうか。
ふと、顔に影が差した。
煙草をくわえたまま首を捻ると、悲しそうな瞳がこちらを見下ろしていた。
浅黒い肌。大きな瞳。聡明そうな、少女。
「……リクグンおじさん、大丈夫?」
「……うむ。全くもって大丈夫だ」
そんなはずが無かった。
体中何処を見ても、無事なところなど在りはしなかった。
しかし少女は、少しだけ笑った。
「良かった。死んじゃうかと思った」
死にそうだった。
「自分は不死身である」
強がりも、冗談も、ただ空しい。
煙草が灰になった。もう一本あったなと胸元を探るが、思うように手が動かない。
見かねた少女は、リクグンの胸ポケットから煙草を抜き出してやった。
マッチをすると、リクグンは気持ちよさそうにぷかぷかと煙を吹きだす。
「……おいしいの?」
「うむ。不味いな」
教育的配慮である。少女は納得行かない様子で、「ふーん」とつぶやいた。
少女はリクグンの傍らに、静かに腰を下ろした。
しばらく、無言の時が過ぎる。
ぷかぷかと浮かぶ煙と雲を、ただ見るともなしに見やる。
「……で、どうしたのだ?」
唐突なリクグンの問いに、少女は目を伏せた。
「……おじさん、負けちゃったの」
ぽつりと呟いたそれは、問いかけだったのであろうか。リクグンは、ただこう答えた。
「ああ、負けたな。完敗だ」
「最強って言ってたのに、嘘つき」
鋭すぎる少女の言葉にも、怒りは感じない。
「自分は嘘をつかない。我々は最強だったが、相手は無敵だったのだ」
屁理屈にもならない理屈に、少女は悲しげに微笑む。
「おじさんって、嘘つきだよね。嘘ばっかりだ」
ああ、そうかもしれないなと思った。
思えば、何をしたかったのだろう。
こんな南の地まで来て、何をしたかったのだろう。
血と火種をばら撒いて、そこまでして僕がしたかったことって一体なんだ。
「……スカルノおじさんが、ドクリツを宣言したの」
少女の言葉に、リクグンは満面の笑みを浮かべた。
「そうか!おめで……」
「おめでたくなんかない!!ちっともおめでたくなんかない!!」
少女は物凄い剣幕で吠えた。凄まじい勢いで立ち上がり、リクグンを睨みつける。
「エリザベス家だってネーデル家だって、すぐに戻ってくる!!そして、今度はおじさんたちはいないんだ!!
また!血が流れるんだ!!わたし達の血が!流れるんだ!!」
少女は倒れこんだリクグンに馬乗りになった。羽毛のように軽い少女が、今はとても……重い。
「ねえ、戦ってよ。もう一度、戦ってよ!もういやだよ!血が流れるのも!虐げられるのも!!」
僕は何がしたかったのだろう。
こんな南の地まで来て、何をしたかったのだろう。
血と火種をばら撒いて、そこまでして僕がしたかったことって一体なんだ。
勝ちたかったのか?
強く、剛くなったのは、勝つためだったのか?
鍛えたのは、勝つためだけだったのだろうか。
それもある。でも、それだけじゃない。
日ノ本家の栄光のためだったのか?
勝ちたいと、勝つと決めたのは、日ノ本家のためだったのだろうか?
勝利を得ようとしたのは、日ノ本家の栄光のためだけだったのだろうか。
それもある。でも、それだけじゃない。
多くの友達が倒れた。
多くの敵を屠った。
激情にまかせて、非道いこともたくさんした。
多くの血が流れた。
僕の血も。
友達の血も。
顔も知らない敵の血も。
屠りたかったのか?ただ、勝ちたかったのか?栄光が欲しかっただけなのか?偉くなりたかったのだろうか。
尊敬されたかった?認められたかった?誰よりも強いと、羨望と憧憬の眼差しが欲しかった?
それもある。でも、それだけじゃない。
それだけじゃない。
僕らが戦ったのは、決してそれだけのためなんかじゃない。
そんなもののために、僕らが血を流すはずが無い。
敵の血が、流れていいはずが無い。
守りたかった。
父を。母を。兄弟を。子供たちを。父祖達の地を。いまだ顔も知らぬ、孫達を。そしてその未来を。
亜細亜を。
長き屈従に耐えた民を。その子供たちを。いまだ顔も知らぬ、その孫達を。そして、その未来を!!
救おうとしたんじゃない。
かつてはそう思っていたけど、それは傲慢だ。
結局、僕らも新たに血と火種をばらまいただけに過ぎなかった。
救いとは、そのような中途半端なものであってはいけない。あっていいはずがない。
神は救いを与えると人はいう。でも、僕はそうは思わない。
救いとは、勝ち取ったその先にただ在るものなのだ。
何も成し遂げられなかっただと?僕は大馬鹿者だ!
負けた今だからこそわかる。そう、全ては始まったのだ。
僕は今度こそ、何かを成し遂げるのだ。
自己満足でもなんでもいい。あるいは贖罪かもしれない。贖罪にすらならないかもしれない。
血が流れた。敵も味方も、血が流れすぎた。それは事実だ。単なる、取るに足らない、冷酷な、
純然たる、誇りと埃にまみれた事実だ。
僕は今度こそ、それに血を通わせるのだ。歴史に、するのだ。
「……ご免なさい……」
胸の上で、少女は泣いていた。大きな瞳は、黒曜石のように剛い。
その涙は、どんな宝石よりも尊い。
「……解ってるの。おじさんはもう戦えない。不死身じゃないし、最強なんかでもない。人間だもの」
泣きながら、笑う。この土地にあって、日ノ本家には無い太陽の光で。泣きながら、笑う。
「戦うよ、私は。そして勝つ。私たちも、人間だもの」
神様にできることなんて、せいぜいが風を吹かせることくらいだ。
戦って、そして打ち勝つのは人間だ。
人間だけなのだ。人間だけで、十分なのだ。
「おじさんは早く立ち去ったほうがいいよ。……また始まる、その前に」
「去らん」
少女の瞳が大きく見開かれた。
「ご免なさい。もう、いいの。私が間違ってたの。今度こそ、私たちが戦わなければいけないの」
少女の顔に浮かぶそれは、決意だ。しかしリクグンは言った。
「それでも去らん」
「強がらないでよ。……私を困らせないで。謝るから。さっきの言葉は取り消すから」
リクグンは、口をへの字に曲げたままなおも言った。
「それでも去らん」
少女がキッとリクグンを睨みつける。良い子だ。僕なんかより、ずっと気が強い。
「ぼろぼろのくせに!手も足も動かなくて、地面にはいつくばってるくせに!不死身でも、最強なんか
でもないくせに!」
「それでも、去らん」
全身に力を込める。
動け、傷ついた手よ。動け、折れた足よ。
骨が軋む。筋肉がばらばらに動く。
でも、立ち上がる。
抱き上げられ、高々と掲げられた少女は目を丸くしていた。
「自分は嘘などつかん。自分は不死身だ。最強だ」
僕は笑えているだろうか。変に曲がった口をして、不細工を晒してやしないだろうか。
彼女は僕を見て、かっこいいと思ってくれるだろうか。
僕の嘘は、本当に聞こえているだろうか。
「去れといわれても、去らん。自分は自分のしたいようにする」
今までも、これからも、
僕は僕のしたいようにする。
「義によって、助太刀いたす」
少女の瞳から、新たな涙が零れ落ちた。
日ノ本家は無事だろうか。非道いことをされてやしないだろうか。
父や母は達者だろうか。
兄弟達は、今も元気でいるだろうか。
子供たちは、飢えてやしないだろうか。
僕の愛した庭は、今も綺麗だろうか。
僕の植えた向日葵は、まっすぐ伸びているだろうか。
高く高く、伸びているだろうか。
まっすぐに、高く、この碧空に。
「……ゃん……ドネシアちゃん……インドネシアちゃん!」
びっくりして振り返ると、黒髪の少女がちょっと怒った顔をしていた。
「もう、なにぼんやりしてるの。日直の仕事わたしが一人でやったんだからね!」
にぱっとわたしは笑った。
「ゴメンゴメン。ちょっと考え事しててさ」
その笑顔に毒気を抜かれて、思わず少女は微笑んだ。
「もー、別にいいけどさ〜。で、考え事って何?」
そういって覗き込むその顔に、おじさんの面影は全く無い。
時々おじさんの名残をその顔に探すのだけれど、いつもちょっぴりだけがっかりする羽目になる。
でも、それで良いのだとも思う。
「ひ・み・つ♪」
「え〜……あれ?何、それ」
わたしが見つめていたものを見止めると、彼女はいぶかしげに問うた。
古ぼけた階級章。すっかりよれよれになってしまったそれを、少女は何なのか知らないらしい。
「大切なものだよ」
「ふ〜ん。ま、いいや。今度教えてね」
そういうと、彼女はランドセルを手に取った。
「途中まで一緒に帰ろ?」
「うん。ちょっと先に行ってて」
うなずくと、彼女はたたーっと教室から出て行った。
おじさんは、忘れていいって言った。
この戦いは君たちだけのものだって、そう言った。
きっと、私もいつか忘れてしまうのかもしれない。
でも、まだ覚えている。
わたしは、まだ覚えている。
絶対に忘れないって言ったら、おじさんは少しだけ笑った。
困ったように、恥ずかしそうに少しだけ笑った。
そして、そのあとすぐに死んじゃった。
おじさんは嘘つきだった。
不死身でも、最強でも、なんでも無かった。
でも、世界で一番素敵な嘘つきだった。
わたしは大切なものを、ランドセルの一番奥にしまった。
世界で一番素敵な嘘つきの、その思い出を。
解説
司馬遼々
投稿日: 2005/04/30(土) 15:02:09 ID:3/Yt6ep+
どうも、司馬遼々です。
調子に乗っていますね。申し訳ありません。
お褒めの言葉をいただき、かなり有頂天になっております。
今回の話は、インドネシア独立戦争のお話です。
有名なお話なので、過去ログにも存在していたかと記憶しています。
ですが、一度は挑戦してみたいエピソードなので、無礼を承知で書かせていただきました。
実際には悲しい話もあって、独立運動で暴徒化した民衆に、日本軍の兵士が殺されて
しまったという話もあったそうです。
しかし日本軍は、「撃つな、指導者と話し合え」と厳命していた為、彼らは無抵抗だったそうです。
その中の一人が、血糊でこう書き残しました。
「インドネシアの独立に栄光あれ」
僕はこの話を読んだ時に、恥ずかしながら涙が止まりませんでした。
今でもその場所は、記念として残されているそうです。
僕らはインドネシア独立の話を知った時に、思わず胸を張りたくなってしまいます。
しかし、わが身を振り返れば、僕らは彼らの万分の一も立派なんかじゃありません。
明日は、今よりも少しだけでも彼らに近づけるように。
そう誓うことくらいしかできません。
インドネシア独立の栄光は、彼らだけのものです。
覚えていてくれたら勿論それは嬉しいことですが、忘れてしまっても構わないと僕は思います。
ただ、僕らは絶対に忘れてはいけないとも思うのです。
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