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第2231話 司馬遼々 投稿日: 2005/05/03(火) 17:21:05 ID:HXc6hAYx
【犬と、猿】

其の一「孫悟空」

密林の中は湿度が高く、なんとも蒸し暑い。
日ノ本家の夏の、ちょっと凄いやつだ。
リクグンは、何度目かに流れ出た額の汗を、無造作に手の甲で拭った。
べたべたするが、今更気にしたところで始まらない。
「……ったく、どうにかならんのかこの蒸し暑さは」
じとじとと汗ばむ中で、軍服の襟元をパタパタとさせる。無駄な努力であり、その余計な動作で新たに汗を吹く。
「それにしても……」
リクグンは頭上を見上げた。
複雑に入り組んだ木々の中、男の裸足だけがかろうじて見える。
随分と高いところまで上り、随分と遠くを眺めているようだ。
「……なんて奴だ」
噂には聞いていたが、実際に目の当たりにするとやはり違う。
日中は案外静かな密林の中、リクグンはすることもなくただ男の裸足を眺めている。
案外やわらかそうにも見える。頑丈なゴムのような、立派な足の裏だ。

と、男がするすると樹木を伝っておりてきた。
蔓を器用に扱い、こともなげに、あっという間に地面に降り立った。
軽くタムッという音がしたが、見事な着地だ。忍者というのは、きっとこんな連中だったに違いない。
まっすぐこちらを見て立つ、その姿勢もいい。しかし何より、その目つきがいい。
太い眉の下、真っ黒な双瞳がつやつやとしている。
「居た。ここから1.2km程。森の開けた場所で、川を前にして野営を張っている。大体が、
 開けた川の方を向いて警戒している。西側から回り込めば、不意を突ける」
ハキハキした話し方だ。報告の内容も簡潔で、わかりやすい。
思わずにやりとしそうなのを堪えて、リクグンは尋ねた。
「貴様、名は?」
「タカサゴだよ。リクグン」
階級を省略した無礼は許そう。あるいは、親しみの表現かもしれない。敬語は他家の人間には難しいとも聞く。
ある程度は仕方が無かろう。
「タカサゴ。貴様は猿のような奴だな」
「……猿?」
むっとした気配が真っ直ぐに伝わり、リクグンはあわてて右手を振った。
「違う違う。あー、そうだ。貴様は伝説の孫悟空のようだと言ったのだ」
「ソンゴクウ?」
打って変わって興味津々といった顔つきだ。そのあまりの純朴さに、リクグンはふっと微笑んだ。
「ああ。猿の英雄だ。シナの昔話だよ。とにかく凄い奴なんだ。知らんのか?」
「知らないな。どんな話なんだ?」
「ええと、昔シナの山奥にな……あとでかまわんか?」
タカサゴはこくりと頷いた。
「ああ。やっつけて、それから聞かせてくれ」
恐れを知らぬとはこのことか。
敵の強さも十分に知っているだろうに、全くなんて奴だ。
リクグンはタカサゴの肩をぽんと叩いた。
「ああ、約束だ。やっつけて、それから話そう」
ニヤッと笑う。
「なぁ?ゴクウ」
ゴクウと呼ばれたタカサゴは、綺麗な歯並びを見せながら、にっこりと笑った。

其の二「ハチ」

数週間が過ぎると、ゴクウはすっかりリクグンのお気に入りになった。
「おい、ゴクウを知らんか?」
手近な若者を捕まえて問うと、「川縁で見かけました」と答えた。
ポケットに手を突っ込んでぶらぶらと川縁まで行く。
そこでは、もろ肌脱いだゴクウは蛮刀を丁寧に研いでいた。かなり湾曲した、特徴的な蛮刀だ。
愛用の品らしくいつも大事にしている。
「おい、ゴクウ」
呼びかけると、ゴクウはちらりとこちらを見やり、また刀を研ぎ始めた。
全く、仕方の無い奴だなと苦笑する。
「……しかし、貴様はたいした奴だな。連中には『いつも身に着けているものほど信用するな』
 と口を酸っぱくして言っているのだが、一度も自分にそれを言わせない貴様が、一番それを
 理解している」
「何が酸っぱいんだ?」
「あー……ええとな」
「俺はウメボシは嫌いだ」
頭をぼりぼりと掻きながら、「いや、あのな?」と一人ごちる。まぁ、いつものことだ。
「貴様にはいつも助けられていると、そう言いたかったのだ。感謝している」
ぴたりと刀を研ぐ手が止まった。
いぶかしげにしているリクグンに向かうと、ゴクウは言った。
「そんなものは、助けるうちに入らない。助けるというのは、血と肉を分け与えることをいうのだ」
「ゴクウ。お前の働きは、まさにそれだと言っているのだ。いつも良くやってくれている」
「違う」
ゴクウは頑固に首を横に振った。
「俺は、しなければいけないことをしているだけだ。リクグンと同じだよ」
何か大切なものがあるのだろう。ゴクウとはもう結構な付き合いとなったが、当然に全てが解るわけではない。
だが、ゴクウには感謝している。素晴らしい部下を持てたと、感謝している。
「ゴクウ。お前は、しなければならない以上の働きをしている。自分は、そう思っている」
ゴクウはにこりと笑った。
「ああ。俺もだ、リクグン。サンゾーの話を教えてくれるのは、リクグンの仕事以上のことだ。
 とても感謝している」
どうしてもお互い様ということにしたいらしい。こんなに気持ちのいい人間は、日ノ本家にだってそうはいない。
だが……。
「なぁ、ゴクウ。自分は貴様のことを、右腕だと思っている」
「右腕?」
「ああ」
リクグンは、こくりと頷いた。
「自分の、右腕だ。最も信頼の置ける部下という意味だ」
「……そうか。リクグンの半分は、俺なのか」
ゴクウはニヤッと笑った。
「それは、悪くないな」
そして、言った。

「俺はお前を助けるよ、リクグン」

正直に言おう。感動した。言葉以上のものが、そこには存在していた。
「なぁ。暇だったら、サンゾーの話を教えてくれないか?」
ゴクウの言葉に、リクグンは我に返った。
「……ああ。どこまで話したかな」
「キンカクとギンカクが酒になったところだ。そこで酒を飲んで寝た」
「……あれは軍機だからな。他言無用だ」
「了解した」
リクグンは三蔵の話を続けた。うろ覚えのところは強引に話をつなげ、それなりの迫力を持って西遊記は語られた。
詩のような、歌のようなその語りに、ゴクウはじっと耳を傾けていた。
「そこで八戒が……」
「またハッカイか」
うんざりしたようにゴクウが口を挟んだ。
「俺は豚肉は好きだが、豚は嫌いだ。ぶうぶう言うだけで、ちっとも誇りが感じられない」
無茶を言うなぁとも思うが、なんとなく解らないでもない。
「サンゾーは犬を連れて行けばよかったのだよ。犬はいいぞ、リクグン」
「なるほどな。確かに貴様の言う通りだ。サンゾーは犬を連れて行くべきだったな」
ちょっと冗談めかして言ったのだが、ゴクウは我が意を得たりとばかりに微笑んだ。
「ああ、そうだ。犬だ。……リクグン。俺は犬を飼うんだ」
ゴクウは空を見上げた。リクグンも、なんとなくつられて空を見上げる。
雨季の境目で、今日はとても良く晴れている。白い雲が、ゆっくりと流れる。
「戦いが終わったら、俺は犬を飼うんだ。大きくて、白い奴だ。そして、畑を守らせる。
 犬はいいぞ、リクグン。強く、勇敢で、忠実だ……」
ふと気がつくと、ゴクウはまじまじとリクグンの顔を見つめていた。
「そう言えば、リクグンは犬に似ているな」
「おいおい……上官を捕まえて、言うに事欠いて犬扱いか」
「強く、勇敢で、裏切らない。リクグン、お前は犬に似ているぞ」
そう言われれば、満更でもない。そうか、僕は犬か。
「日ノ本家で一番有名な犬は、なんという名前だ?」
急に問われても、咄嗟には出てこない。
「ふむ……ハチ公、とか」
「そうか」
ゴクウはにっこりと笑った。
「では、リクグンのことはハチと呼ぼう」
しまった、と思った。ハチ公と孫悟空では、あまりに格が違いすぎる。
「おい、他の連中の前では呼ぶなよ」
しかし、口から出たのはそんな言葉だった。ゴクウは大きく頷いた。
「了解した、ハチ」
深い、深いため息が出た。
其の三「雨」

負けた。

負け続けた。どうにもならなかった。ただ、負け続けた。
気がつけば、リクグンはゴクウとたった二人になっていた。

はぐれた皆のことは気になるが、リクグンもそれどころでは無い。
満身創痍で、降り続く雨にどんどん体力を奪われていく。
やっとのことで見つけた浅い洞窟にもぐりこみ、ただただ不気味な時を過ごす。
時間の感覚はとうに失せた。今が朝なのか昼なのか、それとも夜なのか。
ぼんやりと眺める洞窟の口からこぼれる薄明かりだけが、それを教えてくれた。
「生きているか、ハチ」
いつの間にかゴクウが戻ってきていた。この雨の中を、食料調達と索敵に走り回っている。
頑健という他あるまい。自分も鍛えたつもりだったが。ゴクウには遠く及ばない。
「……死んでいないか、確かめてはくれないか」
精一杯の冗談に、ゴクウは真顔で頷いた。
「やってみよう」
「待て」
ゴクウはごそごそと懐を探った。
「バナナを見つけた。たっぷりあったから、安心しろ」
「……そうか、食料の心配は当分無くなるな」
すっとゴクウはバナナを二本差し出した。
「……一人一本か?」
とてもたっぷりとは言えない。しかし、ゴクウは首を横に振った。
「いや、二本ともハチのものだ。俺は既に三本食べた」
「……そうか」
たっぷりあるのだったら、僕にも三本持ってきてくれればよかったのだ。
「追っ手もいない。少し眠るといい」
もぐもぐとバナナを租借するリクグンに、ゴクウはそう言った。
「……貴様こそ寝たほうがいい。自分は十分に寝ている」
「俺は寝ないのだ。知らなかったのか?タカサゴ族は、みんなそうだ」
知らなかった。いや、そんなはずはあるまい。しかし、リクグンの瞼は鉛のように重くなった。
少しの罪悪感と共に、リクグンは深い眠りに落ちた。

何日が過ぎ去ったのだろう。

ゴクウは毎日バナナを二本づつ取って来た。「一房に五本なっているのだ。だから、俺が三本食べると二本残る」
二房取って来れば良いのではないかという提案には、「重い」と一言であった。
もともと文句の言える立場ではない。リクグンは精々の厭味で、深いため息をつくだけだった。

そんなある夜、珍しく雨がやんだ。
ひるひると虫の声が響き渡る中、二人はただじっと夜に耐えていた。

「……ハチ」

突然、ゴクウがポツリと呟いた。
「……なんだ?」
口を開くのも億劫だが、やっとのことでリクグンはそう答えた。
「……話してくれないか?」
フッと久し振りに微笑った。
「サンゾーの話は、もう終わった。彼らは、天竺にたどり着いたんだ」
「……違う。ハチの家の話だ。日ノ本家の話だ」
ああ、とリクグンはため息をついた。
「そう言えば、あまり話したことが無かったな」
しばし無言の時が過ぎる。
「……ゴクウは、雪は知っているか?」
「……ユキ?」
「ああ、雪だ。白くて冷たくて、ふわふわと空から降ってくるやつだ」
「……ああ、知っている。寒い時に、山の上で降る」
リクグンの口元には、懐かしげな微笑が浮かぶ。
「日ノ本家では、山の下でも降るのだ。綺麗だぞ。一面が真っ白になる」
「……真っ白か」
「ああ、真っ白だ」
「……それは、困る。ハチが、見つけられない」
目を向ける体力も無い。ただ、ぼんやりと宙を見つめる。
「……大きくて、真っ白で、強くて勇敢な……俺の犬だ」
合点がいって、リクグンは頷いた。
「ハチという名前をつけるのか」
「……そうだ。……ハチが見つからないと、俺は困る」
少し考えて、リクグンは口を開いた。
「首輪をつけるといい」
「……それは、嫌だ。ハチは、それを望まない」
「……だったら、貴様のその鉢巻をつけるといい」
今は見えやしないが、ゴクウはいつもその額に真っ白な鉢巻を付けていた。以前居た部隊の、その隊長に貰ったらしい。
「……駄目だ。俺の鉢巻は、真っ白だ。……ハチと同じ、真っ白だ」
「だったら、日の丸を縫い付ければ良いさ」
「……日の丸?」
リクグンは軽く頷いた。
「真っ赤で、まん丸の。日の丸だ。きっと雪の中でも目立つだろう」
ふーっと、ゴクウが安堵のため息を漏らした。腹のそこから抜け出るような、そんなため息だった。
「……ああ、そうだ。日の丸だ。ハチも、きっと喜ぶ」
心底安心したように、うれしそうに呟く。

「……これで……どこにいても……ハチが見つけられる」

「ああ、そうだな。何処にいてもきっと見つかるさ。……ゴクウ?」
返事が無い。どうやら眠ってしまったらしい。タカサゴは、眠らないのではなかったのか。
息を吐き、リクグンもゆっくりと目を閉じた。
がやがやと、人の声が聞こえた。
一気に目が覚めたが、体は殆ど動かない。ああ、僕もこれまでかと思った瞬間であった。
「リクグン殿!リクグン殿!!」
「……ゴクウ!助けが来たぞ!」
リクグンを呼ぶその声は、まぎれも無く同胞の声であった。助かった!
「ゴクウ!ゴクウ!!……ゴク……」



眠っているようにしか見えなかった。

安心したように微笑んで。朝の光が差し込む中で。

眠っているようにしか見えなかった。



世界が白くなる。息が、出来ない。
やせ細り、老人のようになってしまった、あの勇敢な男の姿を前にして。
息が、出来ない。



ゴクウ。お前はいつから食べていなかったのだ。
僕がその少なさに文句を言っていた間、一体いつからお前は食べていなかったのだ。
頑強な筋肉の塊だったお前は、何時の間にそんなに小さくなってしまっていたのだ。

ゴクウ。お前はどうして笑っていられたのだ。
僕が餓鬼のようにむさぼり食う横で、一体どうしてお前は笑っていられたのだ。
いつも仏頂面だったお前が、僕が食べている間だけは笑っていたじゃないか。

助けるって、こういうことか。
血と肉を分け与えるって、こういうことか。

あれは契約だったのか。

僕とお前の、契約だったのか。

であるならば……僕は……。

                ゴクウ
其の四「雲」

リクグンおじさんが、片手を腰に当てて遠くを見ている。
荒地に転がる岩に片足をかけ、すっと背筋を伸ばしている。
気障ったらしいポーズだけど、おじさんがやるとそうでもない。
ああ、わたしはちょっと壊れてるなぁと、そう思った。
「どうした?インドネシア」
おじさんがこちらを振り返った。
思わず真っ赤になってしまい、まったくもう、と自分で自分を諌める。
「え、いや、ちょっと」
と、そこでおじさんの右腕に気がついた。
「そ、それ。なんでおじさんは鉢巻を腕に付けてるの?」
「ん?これか?」
おじさんは右腕に巻きつけられた日の丸の鉢巻を指差して、そう問いかけた。
「うん。皆は付ける時、頭に巻くじゃない。なんでおじさんは腕なのかなぁって」
ああ、とおじさんは頷いた。
「自分の半分はな、こいつのものなのだ」
「こいつ?」
「ああ。ゴクウだ。タカサゴだ」
「……どっちなの?」
「自分はゴクウと呼んでいた」
時々おじさんはこういうものの言い方をする。
慣れては来たけど、意味は相変わらずわからない。
「ゴクウって、何?」
「シナの伝説でな。猿の英雄だ」
「おじさんの半分は、お猿さんなの?」
ぐほっと、おじさんは妙な笑い声を出した。
「違う違う。ゴクウは人間だ。自分が最も尊敬する、最強の男だ。なにしろ、強い。誰よりも、強い」
「……ふ〜ん」
ちょっとむっとした。
それが嫉妬だったと気がついたのは、ずっと後になってからだった。
おじさんは、ぼりぼりと頭を掻いた。
「あー、難しいな。猿の悟空と、人間のゴクウ。どちらの話が聞きたい?」
「人間の方」
おじさんは満面の笑みを浮かべて、「そうか」と答えた。
そして、朗々と話し始める。詩のように、歌うように。その声を聞いているうちに、わたしはなんだか眠くなってきて。
だって、今日はいい天気だ。おじさんの声を子守唄にして、少し昼寝するのも悪くない。

空は澄んで、何処までも蒼く。雲がぷかぷかと浮いている。

大きな、真っ白の、犬のような姿で。

解説 マンセー名無しさん 投稿日: 2005/05/03(火) 17:41:48 ID:HXc6hAYx
ご免なさい。まさかここまでとは思いませんでした。削ったつもりだったのですが……。
次は、「短くする」というSSの真髄に挑戦します。

元ネタはそのままです。
高砂族のお話です。
自分が餓死してまで戦友に食料を与える人間というのは、殆ど神サマみたいな存在だと思います。
その話を知ったときの感動は、いまだに色あせません。
すげぇやつらと一緒に戦った、それは日本人の誇りだと思います。
少なくとも、僕は一生忘れませんし、自分の子供達にも伝えてゆきたいです。

しかし、珍しい現象が起きてしまいましたね(笑)

なんで同じ時間に同じような人間が同じようなことをするのでしょうか。
ちょっと人類の神秘に触れた気がします(笑)


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